パン屋でコーヒーとおばあさんに
僕がよく行くパン屋さんは、ある一定の金額を超えた分のパンを買うと、サービスでスープかコーヒーを提供してくれる。
基本的に僕はコーヒーを頂く、というか絶対にコーヒーを選んでいるが、スープだってもちろん捨て難い。
仮にコーヒーがなかったとして、スープをもらうこともやぶさかではない、というかそれもまた嬉しいことである。
どちらも良い。
ところが、今日もいつもと同じようなパンをいつもと同じように買いに行くと、一人のおばあさんを見かけた。
おばあさんは僕の後ろに並んだ。
僕がいつものようにサービスのコーヒーカップを受け取り、コーヒーメーカーにカップをぶち込み、コーヒーをゴリゴリジョボジョボ淹れくさっていると、おばあさんと店員さんのやり取りが聞こえてきた。
「サービスでコーヒーかスープがございますがいかがなさいますか?」
するとおばあさんはこう答えた。
「結構です」
結構なのか、と思った。
僕はどちらだって欲しいと思うのだから、そのどちらのサービスも受けないという選択肢があるとは発想もしなかった。
なにもサービスを受けない必要はないだろう、と。
せっかくもらえるのだからもらっておけばいいのに、と思った。
しかし恐らくおばあさんにとって「もらわない」という選択が最善だったのだと思う。
コーヒーもスープもいらない。
いらないものはいらない。
くれるならもらう、とはならない。
いらないからいらない、のである。
果たして同じ立場だとして、僕はおばあさんと同じ選択をするだろうか。
仮にいらなくたって、せっかくだからともらってしまう気がする。
それは自分の気持ちに素直だと言えるだろうか。
サービスに限らず、僕は別にコーヒーを飲みたいと思わなくても、なんとなく飲んでしまうことがよくある。
「飲みたい」という気持ちはないのに飲んでしまう。
それはつまり本当は「飲みたい」のだろうか。
こうしたい、という気持ちは、どちらが自分の本当の気持ちだろうか。
飲みたいし、飲みたくない。
相反する気持ちは共存しているような気がする。
しかし実際に飲んでしまうというのなら、気持ち的には「飲みたい」に軍配が上がり、それが本能的な欲求ということなのだろうか。
不思議なのは、気持ちとしては「飲みたくない」という気持ちの方が、意識的にはっきりと立ち現れている気がするということである。
だのに飲んでしまう。
それってつまりただの依存だろうか。
あるいはそうかもしれない。
だとしたらこの議論は意味をなさない気がするが、仮に違うとしたら、気を取り直して、おばあさんのように自覚のある気持ちに従うように生きたいものだと思った。
いや、もちろんおばあさんは単にコーヒーもスープも好きではなく、なんなら嫌いという可能性も否定はできないが、今は実際のところがどうかなんてどうでもいい。
ただ僕は彼女と店員さんのやり取りを見て、勝手に思いを馳せたというだけである。
それで僕の人生が少しでも好転するのなら、それでよいのである。
あとのところは自分次第。
生かせるように生きたい。
おしまい