世界を増やしたれば

ッ!(いっとした顔で)

 

本をパラリラと読んでるとなんだか知らない言葉がいっぱいで、本当に僕はこの人と同じ日本人なのか、という気がしてきます。

もちろん両親は日本人だし、僕自身日本で生まれて日本で育ちました生粋のにっぽん男児なんですけれども、そういう話ではなく、どうしてかくも知らない言葉が出てくるのか、僕は一体この国で何を学んできたのか、というような気持ちに少しとなるのです。

 

僕達人間は言葉などによって様々なものをカテゴリー化し分けて考えてきたんだなあ、という思いに耽り一人花咲かせたことがいつだかありましたが、もしそこに弊害を感じるのだとしたら、言葉の数は多ければ多いほどそのカテゴリーは細分化されるのではないか、そうしたらいいんじゃないか、という風に思います。

例えば「犬」という言葉しか知らなければ、柴犬もゴールデンレトリバーもチワワもハスキーも全て一括りで「犬」という認識になります。

でも僕達は彼等を分けて名称を設け、呼ぶことにした。

だからその区別ができるわけです(かと言って、知らないで彼等を同じ「犬」として認識できるかはわからないが)。

 

ともすると、例えば感情に区別があるのだとしたら、その細やかなニュアンス、細部に至るまでの思いを馳せる言葉があるのならば、それを知っていれば知っているほど心の彩りは豊かになるのではないか。

例えば「怒る」ということにしてみても、憤ってみたり、いかってみたり、腹が立ったり、はらわたが煮えくり返ったり、憤慨したり、勘弁ならなかったり、堪忍袋の緒が切れたり、ややもすると憤死したりする。

今自分はどんな気持ちであるか、その気持ちにどんな言葉が当てはまるかというのは各々感じ方がきっと違うのでしょうけれども、少しでも正確にそのニュアンスを伝えようと思ったら言葉の数は多ければ多いほど良いのではないかという風に思うのでした。

ぼやけた輪郭が少しはっきりしてくるかもしれない。

自覚的にもです。

 

言葉を知らずに思ったように感じることも大事なことのように思うけれど、恐らくは、いやきっと、大人になってからそれは難しい。

すでに出来上がった世界観で、自分の都合の良いように見てしまう世界を、フラットに思いのままに感じることはなかなか難しいように思うのです(子供だったらいざ知らず)。

 

それだったらば、いっそのこと世界観の種類を増やす。

言葉をたくさん知り、世界をたくさん知り、観方をたくさん知る。

そしたらある程度、観方に偏りは生じづらくなるのではないだろうか。

自ずとバランスが取れるのではないか。

 

言葉をひときわ知ってる人の世界観はどんな風になっているのでしょう。

およそ小学生ないし中高生の言葉だけで世界を形成することがいかに危険であるかということは誰にでも想像が付くと思うわけで、しかし存外多そうではある。

多分僕が本を読んで「なにこの言葉?」と疑問を感じるように、僕の言葉が何を言ってるのかわからない人もいるのだろうから、そうなるともうコミュニケーションを図れなくなる。

両者は乖離し、言葉を知る人と言葉を知らない人というのは、どんどん両の極端に向かっていくのかな、という風に思うのでした。

 

生き方としての客観的な良し悪しはわからないけれど、述べてきた通りで、僕はこっち側に向かいたいかなーと今は考えています。

多分、数は少ないのでしょうね。

 

おしまい