嫌な気持ちにさせられて思うこと
人様に嫌な気持ちにさせられることってあると思います。
どうしてこの人ってこうなんだろうな、と思わず思ってしまうような(どっち)。
その人は自覚があるでしょうか。
つまり僕が嫌な気持ちになっていることに気付いてるでしょうか。
気付いていて、あえて僕を嫌な気持ちにしてるというのならば、その人はかなりの嫌なやつということになるのだし、その存在は本当に嫌だなーと僕も感じることを禁じえない。
でもきっと世の中の大半の嫌味を感じる人というのは、恐らく自覚がないのだろうと思います。
だから、きっと心底嫌な人ではないのだとも思うから、少し安心です。
ところで、僕はそちら側になることはないだろうか。
というのも、僕も自覚なく誰かを嫌な気持ちさせてしまっているかもしれない。
それだったならば申し訳ない。
でも誰も嫌な気持ちにさせないなんてことが、人間にできるのでしょうか。
それは誰にとっても都合の良い人というだけなのではないか。
そうではないのか。
もし仮に誰のことも嫌な気持ちにさせずに済むのならば、やっぱりそうしたい、と僕は思うものです。
そうやって八方美人になって、それがまた嫌味になるのもまた嫌なのだから、理想はあれど、やっぱりどうにも難しい。
八方美人では決してなく、ただその人の魅力が溢れていて、器が大きくて、頼りになって、尊敬される存在にもしもなることができたならば、それがやっぱり一番ではないか、という風に思います。
僕は僕らしく僕の理想的な僕でありながら、それが誰からも認められるような存在になることができるとしたならば、それできっと皆がハッピーです。
僕もそうしたいし、そうしたい僕を皆がそう望んでる、そういう存在になりたいですね。
それがつまりどんな人物であるか、明確に言語化はできないけれど、乱暴に漠然と表現するならば「完璧になりたい」ということになるでしょうか。
そんな中高生みたいなことを大の大人が考えてみる。
もしかしたら僕のやりたいことってそういうことなのかなーなんて思ったり。
と言っても、人間が完璧になることなんて不可能なのだから、これは単なる夢物語なんだけれども、その夢物語に少しでも近付くために成長することが人生というものなのではないでしょうか。
人生というものなのではないか、というか、人間らしく生きる醍醐味なのかなと思います。
この考えもまた完璧とは思えないわけだけれど、これは完璧に近付くための過程として重要なステップになると思います。
少なくともブログにこうして書き出さなければ、脳内だけでは中々ここまで考えなかったでしょう。
こういうようなことを積み重ねていきたいものです。
おしまい