衣だけで食べたいアメリカンドッグを
今日はアメリカンドッグを食べました。
アメリカンドッグってあの周りの衣(ころも)の部分が美味しいんだよなーということを生まれながらにして考えている僕は、小学生の頃なんかは「アメリカンドッグってソーセージがいらないんだよな」と常々思っていたものでした。
つまり、衣だけで食べたいぞ、と。
だけれども、今でもその気持ちはないこともないけれど、今日久しぶりにアメリカンドッグを食べてみて思ったことは「ソーセージがあるからこそ周りの衣が美味しいのかもな」ということでした。
衣は確かに衣で美味しい。
しかしながら衣だけの食べ物があったとして、最後まで飽きずに僕はこの野球バットの如く太ましき揚げ物を食べることができるだろうか、というといささか自信がない。
そこにソーセージが入ってると不思議と食が進む。
どうしてだろうか。
そうだからだろうか。
ソーセージがあるからこそ衣が生きてくる。
いや、衣があるからこそソーセージが生きてくる?
主役はどっちだろうか。
そもそもドッグって何?
アメリカのドッグって何?
アメリカンドッグと言うとあれが思い浮かばれるが、これがアメリカンキャットになると全然違うものを想像するのは、人間の想像力の妙ですね。
言葉は一つ違えど、イメージは大きく異なる。
今僕が思い浮かべてるアメリカンキャットとあなたのアメリカンキャットは同じだろうか。
きっと違うでしょう。
でもアメリカンドッグと言えば、僕もあなたもきっと同じ食べ物を想像する。
これが共通認識というものですか。
その共通したものがもしかしてない時には、僕達はものを語れなくなる。
人と人のコミュニケーションが円滑に行われるのは、その共通認識のおかげでしょうか。
もし認識ができなかったとしたら、僕達の会話は平行線です。
伝えられるものはきっと何もない。
もし会話が成り立たない人がいたとしたら、まずはそこから始めなくてはならないかもしれませんね。
おしまい