僕達はヒト科ヒト属ホモ・サピエンス
アメリカンドッグを食べて、なんでアメリカンドッグってアメリカンドッグって言うんだろうなーと思って、ちょっと調べてみました。
アメリカンドッグのドッグって「dog」、つまり犬なんだそうですね。
何か別の意味があるとか、あるいは何か別の綴りの英単語があるのかと思っていたのですが、本当に犬らしいです。
じゃあなんで犬なのかと言ったら、元々は「ホットドッグ」の方が由来なんだそうで、パンからはみ出たソーセージの先を犬の頭に、尻の方を尻尾に見立てて「こいつは最高にドッグだZE!!HAHAHAHA!!」と叫んだのだとか叫んでないのだとか(どっち
なるほど、しかしそれにしたって犬には見えないだろ、と僕なんかは思うものですが、人それぞれ感性は違うのでした。
そういえば、日本で犬の鳴き声と言ったら「ワンワン!」ですが、英語で言ったら「BOW WOW!!」。
ニワトリの鳴き声は「コケコッコー!」と「Cock-a-doodle-doo!!」。
聞こえ方もまた感性の妙です。
キツネはなんて言ったかな?(What does the fox say?)
多分僕達はそれぞれ本当はいろいろな捉え方ができて、それはまた固定された何か一つのものではなくて、それぞれにその都度にいろいろな感じ方ができたはずなのに、言葉により概念が固定化されて、もうそれでしか味わえないように育てられてしまっているとも言えると思います。
例えば大人が子供に「ほら、あそこにワンワンがいるよ」とか教えてあげずに、例えば生まれて初めて犬を見せたときに、犬が鳴いたとしたら子供はなんて聞こえるのでしょうか。
言葉ばかりを教えて良いものか。
音符はドからシまでで十二音ですが、それだって与えられた基準です。
本来区切りはなく、連続した中に人は基準を設けた。
物理的に区切りの線を引いてみたときに、さて本当の意味での区切りはどこだろう。
というのも、その線もまた「太さ」という概念があるのだから、線の両側の外は分けられたとしても、線上にはまた空間が存在する。
本当は無限に広がるこの世界で、便宜的に生きやすくするために人はいろいろなものに概念や区切り、分類を与えてきたのでしょう。
確かに生きやすく、コミュニケーションは円滑になりましたが、僕達の可能性はどこかで閉じてしまっているのかもしれません。
全ては大きな一つと考えたら、世界は随分違って見える。
と思う。
おしまい