人は今日もカラフルに、うねりを見せる

朝と夜とでこんなにも書き方の違いが出るとは、自分でも驚いている。

朝と夜とではまるで別人である、というようなことを外山滋比古さんが『思考の整理学』という本で言っていたような気がしたりしなかったりするが、僕もそんな気がする。

 

朝というのは元気溌剌である。

場合によっては眠たい目を擦りながらにゃむにゃむ書くこともあったが、基本的には脳というのはすっきり爽快となっている。

 

夜になると脳は疲れている。

とりわけ僕みたいにあれこれ面倒臭いことを堂々巡り状に考えてしまう人なんかは特に疲れている(のかもしれない)。

それでは別人のようになっても致し方ない。

 

しかしどちらが本当の自分であるか。

そんなことを考えてみる。

 

多分、どっちも自分である。

そんなことは当たり前である。

 

昨日も「人は基本的にダブルスタンダードである」というようなことを書いたが、それと被る話になる。

人はいくつかのペルソナを持っている。

人は「カラフル」である。

決まった形はなく、まるでアメーバ状にうねうねしている。

 

多くの人はうねっている。

だから芯のある人に憧れを抱くのだろうか。

自分もああなりたい、そんな風に思わせられる。

 

でもうねったっていいんだ、というようなことを言ってくれるのが『カラフル』という小説なんだと思う。

いや、実は小説は読んだことがないのでわからないが、アニメ映画を観た限りそんなようなメッセージ性だったように記憶している。

 

人は変わるし、変わって当然だし、変わったっていいんだ。

君はどんな色を見せるんだい?

そんな話だったと思う。

 

決まった色はない。

ならば好きな色に染まれる。

 

決まった形はない。

ならば好きな形になれる。

 

けれども、その形状を維持することは難しい。

きっと型がないからだ。

 

疲れたら、少し崩れてもいい。

 

でも思い出したら、もう一回形を成してもいい。

 

僕達は自由だから。

 

おしまい