たぶんどっちでもよかった

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それにしても、A君の問いにB君が僕とは異なる意見を言ったときに、僕が割って入らなかったのは正しい判断だったのだろうか。

 

……………

昔の僕は「正論」を言うことが正しいと思っていました。

だから、友達とかが誤った(と感じられる)意見を話したり、行動に移したときは、急いで正していたように記憶しています。

ただ、その正しさは(酷く)主観的なものであって、客観的に正しかったかとか、彼にとっては正しかったかなどのことが考慮されていたかと言われたら、そんなことはなかったでしょう。

きっと浅はかで、およそ「正論」とは程遠いこともいっぱい言ってきたと思います。

 

ともすると、それこそが鬱陶しい存在だったのだろうなーなどと振り返っています。

 

彼は間違っている、だから正しくさせなくちゃ。

そんなメンタリティのやつが友達にいたら普通嫌でしょう。

よく友達たちは僕と友達でい続けてくれたものだなーと心底ありがたくも思うくらいに感じています。

 

そんな僕が一体どういうわけか、事なかれ主義とも言えるほどの、仏のような存在になってしまいました。

誰かが喋れば僕は口をつぐみ、そうだね、そうだねと話を聞いてあげます。

ひとしきり聞いたあとに、何か思うことがあればゆっくり口を開く。

 

だもんで、ゆっくりするものだから、複数人で遊んだりすると口を開くタイミングが一向になかったりもします。

みんなが思い思いの言葉を紡ぐ中、僕はみんなの言葉を一人噛み締める。

あーだのうーだの、何かしら口に出せばいいものを、そうはせず、(良く言えば)ちゃんと考えてから物を言うようになったのだと思います。

すっかり大人になったものです。

 

……………

さて、でもそれが正しいかはやっぱりわからないよな、とも思います。

というのも、僕が口をつぐむのが正しいとは限らない。

僕が意見を言うことによって、誰かが感心して、大袈裟に言えば人生が変わるかもしれない。

もちろん反対に怒らせることもあるかもわからないけれども、一人黙っている姿はきっとあまり好意的な態度には見られていないようにも思います。

友達たちは「もっと楽しくお喋りしようよ」と思ってるかもしれない。

僕が口を開くことによって、もっと話が面白く転がることもあるかもしれない。

そしてそれが誰かの何かのヒントになるかもしれない。

 

悩ましく思います。

コミュニケーションって難しいなと思います。

 

……………

しかしながら、今回に限って言えば、こういう形も悪くはないですよね。

あの場で僕が口を開けば、A君とB君と共に、もっと有意義な議論の展開が見られたかもしれないけれども、そうなっていたら僕はきっとA君にお手紙を書くことはなかったでしょう。

お手紙を書いていなかったら、今回のようなディープなやり取りも実現しなかったと思うのです。

 

じゃあこれも悪くない。

 

ともすれば、難しい。

 

難しいが、だから面白い。

 

そんなメンタリティで生きていきたいものです。

 

おしまい