インターネットに疲れた君へ、お休みなさい。
前回の最後の最後に「インターネットなコンテンツ」について軽く触れたので、少しだけ掘り下げてみたいと思います。
僕はインターネットって知れ過ぎると思うんですね。
例えば僕達人間が狩猟採集民だった頃は、ご近所さんのことだけ知っていればよかったわけです。
ご近所っていうか、行動を共にする仲間、ですか。
確か人は50人~100人くらいの人間しか把握できない、みたいなことが言われていたと思いますが、要するにそれくらいの集団行動をして我々のご先祖様達は生活していたということだと思います。
あとはあの山がどうだとか、この森がどうだとか、はたまたあの動物がなんだとか、この昆虫がなんだとか、そういう生活に必要な知識というのも蓄えていたはずです。
つまり、自分の身の回りで起きていること、そして生活しているその環境についてある程度知っていればそれで必要十分であり、それ以上の情報処理能力は獲得してこなかったのだと思います。
でも時代が進むに連れて、村を作り、町を作り、国に発展して、世界は繋がります。
そうやって関わる人間は増え、知っておくべきことっていうのはどんどんと広がる一方であり、その分環境についても広く目を向けることになります。
実際、僕の祖母が子供のころは、隣町に行くために山を歩いて越えたと言います。
それが今や車で数十分、新幹線に乗ればあっという間に地方を飛び出し、飛行機なら海外にだってひとっ飛びです。
更にはいよいよご存知インターネットが登場すると、その近さというのはかつてない距離に迫り、いつでもどこでも世界の情報にアクセスできる。
ともすると、世界中のどこで何が起きていようと知れる状態に僕等はあり、その情報を処理するのに齷齪(あくせく)してるのが、僕達現代人の特徴と言えるのではないでしょうか。
世界の芸能情報、世界のコンテンツ、世界のニュース、世界の暮らし、世界の景色。
世界のどこかで今日も不幸がある。
それは江戸時代には関係のなかったことなのに、今は身近に感じます。
誰かの炎上、そんなことに脳を使うのは勿体無い。
映画は観ても観ても切りがなく、それでも観たい映画は増える一方で、アニメだって、ゲームだって、ドラマだって、音楽だって、本だって、同じく無限のように増えていく。
それらで満たされる日は永久に来ない。
世界は繋がってしまったから。
友達の動向気になって、暇さえあればSNS。
動画探しにだって精が出る。
体力回復、反射でゲーム。
ポイント貯まれば、ガチャガチャガチャ。
世界のこんな暮らしに憧れる。
世界のこんな景色を見てみたい。
良い悪いはさて置いて、処理しても処理しても処理しきれない情報にまみれる僕達は、多分結構疲れている。
狩猟採集民だったホモ・サピエンスが処理してきた一生分の情報よりも、恐らく我々の数日分の情報の方が多いように思えます。
……………
野生動物に少しだけ憧れます。
彼等の生き方の方がずっと過酷で苦労も多いだろうに、自由に逞しく生きているように見えるのは何故でしょうか。
自覚はないだろうけれど、きっと一生懸命生きているのだと思います。
安心安全で面倒臭い世界で生きている僕達人間は、そんな彼等を見て直感的に思うところがあるのかなあ、なんて思います。
かつてとある子が「鳥になりたい」と言っていました。
その真意はわからないけれど、僕も空を飛んでみたい。
あるいはクジラになって、優雅に大海原を泳ぎたい。
……………
でも僕は幸か不幸か人間として生まれたわけですから、生まれた以上は人間としての幸いを謳歌したいものです。
その幸いとは果たしてなんだろう。
少なくともご先祖様を顧みるに、「与えられたコンテンツを消化していく」ことではないのだろう、なんて気がしています。
恐らくは「体験」にあるのだと個人的には思いますから、僕は今日も五感を大事にしていきたい。
「ハッピーポンコツ」よろしく、今日も美味い飯が食えればそれでひとまず御の字です。
そしてぬくい布団にぬくぬくと、良い夢見れたらいいなーなんて夢見ながら、今日も一日お疲れ様でした、お休みなさいってなもんで。
また明日、人並みに頑張りましょう。
ノシ
おしまい