言葉は素敵なことだと思う

少し思い違いをしていたかもしれないかもしれなくもないのかもしれなくない(どっち)。

僕は日記を書くわけだが、昨日買った日記用のノートに記した言葉というのは、とても日記的ではなかった。

どちらかというと哲学的な様相が呈されていて、それを書こうと思いこうしてブログの記事編集画面を前にすると、途端に腰が重たくなるのだった。

 

どうして重たくなるのかというと、哲学的様相を呈した重たい内容は、実に正確性が求められる。

本当かいな、と。

矛盾してるのではないか、と。

そんなようなツッコミが来ないよう練りに練って、ねるねるねるねしなくてはならない。

 

だけれども、ねるねるねってる時間は1日だけでは足らない。

というか、僕みたいな一般人が一生懸命考えたところで到底辿り着かないようなテーマを不用意に選んでいるかもしれない。

 

考えれば考えるほど、書けば書くほど、お尻が遠くに見えるのであった。

 

そんなような内容を毎日のように取り扱っていたら、日記なんてものは一生書けない。

だからお少しお尻のお肉をお削ぎ、お腰をお軽くしたい。

 

日記は思い付きでなければならない。

そんな風に思った。

 

今書きたいことを書くべきである。

そんな風に思った。

 

と言ってもこんなのは日記とは言えないかもしれない。

日記と言えば今日あった出来事を書くものという定義がありそうなものだが、僕のこれは今日の出来事が何一つ書かれてはいない。

 

いや、ノートに書き記したことは重たくて書けなかった、というのは今日の出来事であったか。

 

まあそういう定義の話は置いといて、僕としてはその日に思ったこと、考えたことを記す、という意味で日記ということにしたい。

なんだか前にも同じようなことを書いてるような気がするけれど、都度都度軌道修正するためにも確認していきたい。

 

ところで、にんげんだもの、僕も過去の記事と最近の記事で矛盾したことを書いてる可能性がある。

無論矛盾のないように生きたいし、そういう考えのもと物事を書いてるつもりではあるが、ややもすると矛盾が生じてる場面というのはあるかもしれない。

 

言い訳にはなるが、つまり人間なんてそんなもんだ、と思う。

どれだけ一貫性を持つよう意識したって、どこかに矛盾は生じるものだと思うし、ダブルスタンダードになりがちなんだと思う。

ある場面においてはAという立場だけれども、違う場面においてはBという立場を取ることもあると思う。

そういうのはあまり良くはないと思うわけだが、繰り返すが、人間はとかくそのようになりがちである。

僕も例外ではない。

 

でも一貫した、芯のある人間になりたいなーなどと思う今日この頃。

 

ブログは過去の自分を知れるという意味でも実に面白い。

内面が記されたものが置かれているその様子はロマンすらある。

 

言葉を時を超える。

何千年も前の人間の言葉も残っている。

 

僕なんかの言葉がいつまで残るかはわからないが、日記を書く理由にはそういう側面もある。

誰かの心に残るなんてこともあるかもしれない。

素敵なことだと思う。

 

いろいろ書いていきたいなーと思う。

 

おしまい