「自由」とは「時間」ではない
妻の仕事が始まって、昨日は随分久しぶりに僕一人だけのお休みだった。
一人のお休みかー何しようかなーと考えたとき、いろいろなことが思い浮かんだ。
あれをしてもいいし、これをしてもいい、あんなことでもいいし、こんなことでもいいな。
自由にできる時間が確保されることは、とても嬉しいことだと思った。
けれども、実際には思った程の自由度は感じられなかった。
それはどうしてかというと、時間の制限があるからだ。
「この時間まで自由」という制限がある中で、さて何をするかな?という選択は、まさに選択のパラドクスを感じさせられた。
それはつまりどういうものかと言えば、選ぶものが多過ぎて選べない、という嬉しい悲鳴とも言えるものである。
例えば映画を10本観たいとする。
しかしそれはどうしたって時間的に無理なのである。
そうなるとそこから選ぶ必要がある。
これは大変覚悟のいる作業になる。
もちろんやりたいことは映画を観ることだけではない。
実際には他にもいろいろあって、その中から何かを選択して、1日の予定の中に組み込むのである。
でも自由ってそんなことじゃない。
「限られた休みに何をしよう」なんて全然自由じゃないんだ。
明日も明後日も、明々後日も弥の明後日も続く、そんな同じ日常の中に見出す自由時間の方がよっぽど自由だと思った。
なんなら妻と一緒の休みの方がよっぽど自由だと感じた。
と言ってもこれは僕の性格上の問題である。
これが例えば「登山が趣味」という人であれば、休みの日には迷わず山に行くのだろう。
それは恐らくきっと自由なのだと思う。
僕みたいにあちらこちらに気が散ってしまう人には、自由を成就することはなかなか難しい。
……………
というところまで書いて思い出した。
僕は「1ヶ月に1つ、集中して取り組もう」と声高らかに宣言したことがあった。
年末年始を経て、日記も書くようになってすっかり忘れてしまっていた。
これを思い出し、取り組んでいたら、昨日はそれに集中するだけで良かったのかもしれない。
そうか、人って忘れるんだね。
それを思い出した。
うーん、でもどうしよう。
おしまい