日記っぽいブログが書きたくて幸せを考える
僕は元々は日記が書きたくてブログを書き始めたところがあって、しかしながら、日記なんてーものは芸能人だとか有名人だとか著名人だとかザナム・ジンだとか、そういうような人が書くからこそ意味があるといいますか、僕みたいなどこぞの誰ともわからぬ人間の日々の記録を書いたところで一体この世界にどれだけのインパクトが与えられるのだろうかと言ったら、それはもうバタフライが飛び立つくらいの微々たる風が吹く程度のように思われます。
ただまあ、僕がフワッと飛び立つことに一体どれだけの意味があるのか、もしかしたらそんな小さな風にだって、バタフライがエフェクトするようなことがあるのかもしれません。
そう考えたら少し希望が出てきそうなものです、という思いで筆を執っています。
そもそも意味があるってなんだべか。
そんなことを意味なく考えてみる。
物が溢れているこの時代に、情報が溢れているこの時代に、一般的な人間である僕達にとってもう知られないことなんてないのではないかと思います。
得られないものなんてないんじゃないかと思います。
もちろん金銭的な問題ですとか、知識的な問題ですとか、そういうような障害によって達成されないことってあるとは思うけれど、でももう生きていくのに困るような状況ってよっぽどのことがない限りないと思うんですね。
「欲しい物」はあっても、「ないと困る物」はない。
その「よっぽど」がいつ来るかわからないんだから、それなりに準備はしておく必要はあるとは思うけれど、でもそのよっぽどが起こるまではそんなに困らない。
要するに、衣食住には困らない。
じゃあ僕達は何を求めるのでしょうか。
暇になった僕達は退屈を凌ぐ何かを欲するようになると思います。
だから世界の貧しい国々で1日100円だって満足に使えないような子供達が毎日ひもじい生活をしている一方で、満足に退屈を凌ぎたい人達は課金に一発10万ドーン!とか使っちゃう。
物質的な満足を得た僕達は、精神的な満足を求める。
……………
僕達は多分もう十分です。
でもその十分では飽き足らず、人間とは欲深いもので、もっともっと欲しくなる。
そういう本能・習性が地球を征服していったのだと思います。
もう十分であるならば、もう何をしても意味がないようにすら思われる時代であるな、という気がまたしてきます。
もう情報発信的な意味というのはなくなって、もう個人個人が楽しむ時代なのかな、と。
なるほど、それはなんだか少し、つまらない時代だなと思う。
……………
もう芸術は生まれないのかな、クラシックは生まれないのかな。
生まれたとて、一部界隈で話題にはなれど、もう一般的には評価もされないのかな。
「よくわからん」から。
いつの時代もそうだったかもしれないけれど、どんどん拍車が掛かるような気がします。
広く考え込む方がしんどくて、何も考えず楽に身を任せるのがむしろ賢いとも言える時代。
僕は多分もう後者にはなれない。
なれないし、前者の生き方の方が人間らしくていいような気がする。
後者の方が楽しいだろうけれど、幸せにはならないと思う。
前者の方がつらいだろうけれど、幸せを感じられると思う。
「楽しい」は「=幸せ」にはならない。
揺らいで揺らいで、楽しいに満足したら、次の楽しいを探すサイクルから抜け出せないから。
「楽しい」よりもより楽しい「楽しい」を追い求める人生は、多分どこかで行き詰る。
でもそこに何かしら努力の伴った「楽しい」には未来がありそう。
楽しい努力。
続けられる努力。
楽しいからそれを努力とも思わない努力。
そんな時間で埋まった人生はきっと幸せなんじゃないかな。
でも必要な努力もきっとあるだろうから、その辺りの塩梅が難しい。
これから僕達は、どうしたらいいだろう。
……………
なんて、ようわからん話になってきましたが、まあこれはこれで日記っぽくていいような気がします。
こんなノリで本来的には書いていきたいのでした(言いたいことありきじゃなくて)。
さて、こんなバタフライ。
ちゃんとエフェクトするでしょうか。
今頃地球の裏側で嵐が起こって、その嵐が巡りめぐったもんで僕ん家が天変地異です。
うわああああああ!!
エフェクトしました。
おしまい