僕は多分、不幸だった。
家事のようなやるべきことをないがしろにして、ついついやりたいことを優先してしまう。
というようなことを昨日の日記の最後の方に書いたと思う。
これについて少しだけ深堀したい。
どれほどの人に当てはまるだろうか、今の時代、興味がそそられるものが多過ぎるように思う。
あの本を読んでみたい、この映画を観てみたい、このゲームをやってみたい、あの音楽も気になる。
その興味の対象はそれぞれ違うと思うが、いくつかあるものだと思う。
物に限らず、場所なんかもそう。
ネットで国内外、情報はいくらでも得られるのだから、近所の飲食店から世界の絶景まで、行ってみたくなる場所は尽きることがない。
そうやって重なるわ重なるわ興味の対象。
それらを解消する為には消化するしかない。
せっせとせっせと本を読み、せっせとせっせと映画を観て、せっせとせっせとゲームをする。
休みになれば行ってみたかった飲食店に行ってみたり、観光地に行ってみたりする。
そうやって消化してみるんだけれども、世界はどうにも繋がってしまったものだから、また新たな興味が次々に生まれてくる。
消化しても、また供給されるんだ。
あるいは自分からそれを探してしまう。
そういう無限ループが起こるのが現代社会なのではないか、と思う。
嬉しい悲鳴でもある。
僕達は飽きることがない。
なんでも用意されてるし、用意される。
ただ悲しいかな、そのほとんどは暇潰しの為と言っても過言ではない。
本当に心の底からそれを求めているのだろうか、というとそうでもない。
ただ暇で、その暇を解消するものを探している、という人は少なくないと思う。
僕達は暇潰しに忙しい。
そして、暇潰しは決して「幸福」は感じない。
暇ではないし、楽しくはあるんだが、幸せでもない。
むしろ「あれもやってないし、これもやっていない」という気持ちは不幸ですらある。
選択肢が多いことは、自分の好きなことを選びやすいということなのだから幸福になるはずである、という論調がいつの時代かあったらしいが、実際どうなったかと言うと、選択肢が多過ぎると人は選べないし、選ぶということはまた同時に選ばなかった事を捨てるということなんだからむしろ不幸を感じる、という結論に至った(哲学的な意味で)、という話をどこかで聞いた。
話を戻すが、まんまと僕はこの罠に嵌っていたと言える。
興味の対象が多いということは人生を謳歌してる証拠である、と思っていた時期もあるが、実際どういう生活だったかと言えば、興味の対象を消化しようと忙しい毎日で、家の事はほったらかし気味。
楽しんでるようで、あれもやってないしこれもやってない、という焦るような気持ちは強く、更に生活習慣は悪くなるばかり。
もちろんゴミ屋敷になるほどに酷くはないが、後回しにすることが多かった。
これでは良くない。
良くないんだ。
恐らくそんなことを僕は、正月にゲームをしていてひとりごちたのである。
だから、一旦そういう気持ちから離れようと思った。
まずは家の事、実生活を大事にしようと思った。
そして余った時間で、本当にやりたいことから始めることにした。
今はそれが心地良い。
興味に引っ張りだこ状態だった腕を全部ぶった切り、自ら興味に手を差し伸べる。
他を捨てるという感覚は不思議とない。
全部一旦捨てたつもりだから。
それを一つだけ拾い上げるような感覚である。
しかし「それもいわば選択なんじゃないの?」と言われるとぐうの音も出ない。
難しい話である。
さて、お時間です。
また明日考えよう。
おしまい