テキトーに生きながら一生懸命生きればいいんじゃないかな
前回の記事を自分で読んでみてふと思ったのですが、僕達はなんとなく周りの方々の生き様を見て、じゃあ自分もこれくらいまで生きるのかな、それまでにこんなことをして、こんな風になって、こんな感じで生きていくのかな、なんて漠然と思うのだと思います。
それだからこそ僕は、なんとなく80くらいまで生きるのだと(勝手に)思っているんですね。
けれども、もし仮にそういう情報が一切なかったとしたら、僕達はどんな風に生きるのでしょうか。
じゃあ人間がまだ狩猟採集をして暮らしてた頃を想像してみましょうか。
そもそも時間という概念がはっきりとしていないし、1年というものも意識しない。
ともすれば、年齢という概念もない。
じゃあきっと、自分がどれくらい生きるかなんてことは想像も付かなかったと思います。
一生懸命「今日」を生きるために、狩猟採集に精を出していたのだと思います。
ともすると、夏休みの宿題みたいなことにはならないのだと思います。
ただただ今日やるべきことを淡々とこなす。
「淡々と」と言うとどこか味気なく感じるかもしれませんが、多分生きることに一生懸命で「生きてる」っていう実感はみんなが当たり前に持っていたものだったのでしょう。
一方、僕達現代人は先々を想像します。
なんとなくこれくらい生きそうだ。
その間にこんなことをしそうだ。
こんなこともしなくてはならなそうだ。
あんなこともそんなこともやりそうだ。
ああ、面倒が臭い。
臭くてかなわん。
ぷんぷん臭う。
みたいなことになるんだと思います。
……………
社会って素晴らしいけれど、弊害もある。
いっそ何も考えず、今日という1日を過ごすだけで良しとされたら良いのだけれど、それだけではどうやら将来に支障を来たしそうです。
なんて、そういうようなことを考えると、なるほど、面倒だなと思う。
要するに、先々を想像し、それを踏まえた上で一生懸命になることを求められているのが現代社会なのだと思います。
……………
でもそれがもしなかったとしたら?
何も考えなくてもよかったとしたら?
つまり自分(人間)の寿命なんか知らなかったとしたら、僕達はそれぞれどんな風に生きるでしょうか。
もちろん僕が80まで生きる保障はどこにもなく、明日事故で死ぬ可能性だってある。
そういった意味では「どれくらい生きるかわからない」とも言えると思うのだけれど、狩猟採集民時代の「どれくらい生きるかわからない」とはやっぱり意味が違う。
なんというか、前者は「夏休みは8月いっぱいまであるけど、たまに早くに学校が始まることもあるよ」みたいなものだとしたら、後者は「いつ夏休みが終わるかわからない」みたいな状態だと思います。
いつ夏休みが終わるかわからないなら、はてさてどんな風に生活するかしら、という話。
明日終わるかもしれないし、1年後かもしれない。
もっと長いかもしれないけれど、やっぱり明日かもしれない。
要するに考えても仕方がない。
なら今日を一生懸命生きますか、という話になるのではないでしょうか。
そういうメンタリティでホモ・サピエンスは繁栄してきたのではないでしょうか。
それが、データが集まり、僕達の夏休みはどうやら80年くらいありそうだ、なんてことを知ってしまった昨今は、あんなことやこんなことを、あることないことまで含みながら先々を見てしまいます。
しかも生きてる間に医療技術は向上して、90とか100は然ることながら、もしかしたら僕達が老人になってる頃にはもっともっと長生きするのが当たり前かもしれない。
なんと言いましょうか。
何すればいいんでしょうね、そんなに長く。
……………
ってね、先を見ると思っちゃうものですから、いっそたまにはそんなことは忘れてしまってね、今日を一生懸命生きることにコミットしたっていいんじゃない?こんな時代だからこそ、なんて思うのです。
先を見ながらやれたら確かに賢いんだろうけれど、みんながみんな賢くなくたっていいんじゃないかな。
とにかく今日が一生懸命ならいいんじゃないかな。
そしたら結果的に何かが積み重なるんじゃないのかな、なんて淡く思ったりもして。
ただ、テキトーに、ではなく、一生懸命、というのがみそだったりもして。
じゃあ何をどう一生懸命になればいいのさ、って考えると、やっぱり先を見るべきなのかな、とも思うけれど、そうとも限らない。
それぞれきっと、いろいろあると思う。
僕は読書を勧めるけど、なんでもいいと思う。
能動的にやることなら、なんだっていいと思う。
楽器でも、料理でも、絵描きでも、運動でも。
そうやって、今日を消化するんじゃなくて、今日を生きる。
そういう、先を見ることのテキトーさと、今を生きる一生懸命さのバランスが実は大事なのではなかろうか、という風に書きながら思いました。
思い付きで書いたのでまとまりはないかもしれませんが、これもブログの醍醐味だろうという言い訳を自分にして終わりにしたいと思います。
にゃむ。
おしまい