知り過ぎ注意報

f:id:model_ico:20210508064920j:plain

最近、情報のバランスというものをよく考えます。

と言うのも、知りたい情報を、どのような形で、どれくらい知れば適切であろうか、などと考えるのです。

 

例えばだけれど、旅行に行くとします。

どこでもいいですが、じゃあ僕が人生で一回はこの目で見てみたいと思うウユニ塩湖にしましょうか。

ウユニ塩湖に行きたいと思ったとします。

そうすると、今の時代インターネットでなんでも調べられるわけですから、ウユニ塩湖に関する情報というのはいくらでも調べることができます。

行き方も、現地のことも、旅行者の体験談も知れます。

動画だっていっぱいあるので、映像を見て行った気になることもできるでしょう。

VRがあったとしたら、その気はひとしおです。

 

さて、そうやって知れば知るほどに、もう僕の中のウユニ塩湖に対する興味関心は薄れていきます。

仮に興味関心を数値化できるとしたならば、最大が10だとしたならば、7くらいのことを知ったならば、残りの興味関心は3しか残っていません。

これがもし、事前に3くらいのことしか知られなかったら、興味関心は7も残っていたのに。

 

要するに、知りたいことを知れ過ぎる時代、とも言えると思うのです。

 

僕達人間は冒険心というものがあると思いますから、未知のものに対する好奇心というものがあると思います。

かつて僕達のご先祖様達は、あの山の向こうには何があるんだろうか、あの海の向こうには何があるんだろうか、そんなような思いを馳せて旅に出たのだと思います。

そしてそういう思いがあるからこそ、僕達現代人もいろいろ興味を持ったことを調べたりするのだと思います。

 

でもどこでもどれだけでも調べられるのだとしたら、もうかつてご先祖様達が旅によって得られたような感動は、僕達には感じられないのだと思います。

 

仮に江戸時代ならば、人伝えに聞いたでしょうか。

海外にはどこまでも広がる塩の原があるんだってよ!って。

死ぬまでにいっぺんは見てみてーなあ、なんて思いを馳せるわけですが、実際に行ってみたら目玉が飛び出るほどに吃驚仰天して腰を抜かすかもしれません。

写真すら見たことがないのなら、その圧倒的な景色に対する感動は文字通り最高でしょう。

 

ウユニ塩湖はまあ江戸時代には現実的ではないとしても、日本三景の一つ「松島」に思いを馳せて、実際に赴いた人は数多くいたことでしょう。

そして、ああ日本に生まれて良かったなー、なんて思ったりしたのではないでしょうか。

 

というようなもんで、情報が少ないからこその「本物」「実物」に対する感動ってものがあるんじゃなかろうか、と思うのです。

 

だから、知り過ぎるのも考え物かもしれないな、と思うようになったのです。

歴史とか、科学とか、生物とか、そういうものはどんどん知ればいいと思うけれど、見て確かめに行くような体験ベースのものは、ある程度情報を削ぎ落としてもいいのかもしれません。

そのバランスは難しいけれど、上手くコントロールできれば、現代においても一人、旅に思いを馳せることはできるのかもしれないな、なんて思うのでした。

 

おしまい