君と僕のこれからの目標
今日で2023年。
よくこういう変わり目のときに目標を掲げる人は多いと思う。
かく言う僕も今からそういう日記を書こうと思っているのだが、一方で「どうでもいい」という思いもある。
というのも、思い立ったが吉日、別に変わり目を意識する意味もなかろう、とも思うのである。
今年は○○をやるぞ!と誰かが声高に言ったとき、応援したい気持ちと一緒に、それは去年の内に始めることはできなかったのか?とどこかで思ってしまう。
もちろん「今年は何をしようかな」と考えた上で思い付いた内容であったならば、それは今年思い付いた今年の目標になるのかもしれないが、例えば年の瀬で「よし来年から頑張るぞ」と誰かが言ったとき、いや今から頑張れよ、という風にもまた思うのであった。
まあそれは置いておいて、今は今からの話をしよう。
今、日記を書くバランスが実に難しいと感じている。
書いてみて、思った以上にその日に思うことは多く、書こうと思えばいくらでも書けることに気付いた。
例えば昨日書きたかったことが3つあったとする。
でも今日だって書きたいことが3つあったとする。
じゃあどれを書けばいいんだ?というジレンマが生じる。
選択のパラドクスによって手が止まりかねない由々しき事態とも言える。
要するに消化しきれないのである。
もちろん無理に全部を消化する必要もないのだから、後はもう自分のさじ加減。
書きたいなら書けばいいし、書かないという選択肢もあるだろう。
さて、今年の目標は「日記のバランスを探りたい」になる。
そんなしょぼい目標があるか!と思う人もいるかもわからないが、割と本気である。
出来ることなら上手く自分の気持ちをまとめたい。
その日のことを上手く消化したい。
よく考えたいし、よく残したい。
日々思うことを上手いことまとめて、上手いこと文章を書けるようになったならば、来年の今頃は恐らく大変に面白い人間になっているであろうこと請け合いだ、という期待があるのである。
ともすると、本当の目的は「面白い人間になる」かもしれない。
それならそれでかまわない。
その目標を達成するためにやることは「日記を書く」ではないかもしれない。
本を読むことだろうか、映画を見ることだろうか、人と会うことだろうか、仕事に励むことであろうか。
あるいはその全てだろう。
そう考えると、ならばこうなる。
「丁寧に生きる」
やりたいことも、やりたくないけどやらなければならないことも、純粋にやるべきことも、つまり自分の意思とは関係あろうがなかろうが自分の行い全てと丁寧に向き合う。
そしたら自ずと面白くなるだろう。
その日記を書くとまた面白い。
その完成した人物像も面白いし、残された文章もまた面白い。
その文章がまた面白さに拍車を掛けてなおも面白い。
面白い人が面白くなったらそれは一際面白くてやっぱり面白い。
ちなみに一応言っておくと、ここで言う「面白い」とは「笑える」ということではない。
ユニークでありたい、ということである。
しかしここでまた思う。
これは「今年」の目標なのか。
これは今思う生き方の話であり、「人生」の目標とも言える。
ともすると、やはり変わり目に掲げる目標に意味はないように思う。
今そうしたいと考えるならば、今からやればいい。
それがいつまでとかいう設定に意味はなく、達成されるかどうかということもまたどうでもいいことである。
要するに誰にとっての目標も、一言で言えば「頑張りたい」なのだから、結果を気にせず頑張ればいいだけの話なのである。
なるほども、元も子もない。
それは生きてる間ずっとそうだろう。
今年とか来年とかの話じゃない。
君も僕も、ただ頑張ればいいのである。
おしまい