大人になって気を付けるべきこと
また友達について一人ぼんやりと考えていたのですが、人は年を追うごとに経験も増え、知識も増え、自分なりの価値観というものがどんどんと確立されていくのだろうなーと思います。
そうすると誰しもが、どこか語気が強くなったような印象を持ちます。
昔の僕はもう少し物をはっきりと言っていた、というようなことを前にどこかで書いたと思いますが、もしかしたら皆の語気が強くなって僕はただ圧倒されているだけなのかもしれない、ということも考えたのです。
「そこまで君が言うならば確かにそうなのかもしれない」とも思えば、僕からは何も言えない。
全ての場面においてそうだとは思わないけれど、そういう傾向は出てきたのかもしれません。
ともすると、僕も語気が強くなっているだろうか、と考えます。
自分なりに謙虚でいようとは思っているけれど、やっぱり知らず知らずの内に自分の考えに捉われて、人様の意見が入り込まないようにまくし立てているかもしれない。
気を付けなければならないな、と思います。
しかしながら、僕は周りを見てそう思うが、僕が周りにそうではないならば、周りはそれに気付かないなんてこともあるでしょうか。
「人の振り見て我が振り直せ」
なんて言葉があるけれど、その言葉で例えるならば、僕がその誰かにとっての「人」にならないならば相手は我が振りなんて多分見ない。
冗談半分で言いますが、その状況が行くとこまで行ったならば、僕だけが皆の振りを見て、僕だけが我が振りを直して、僕だけが皆にとって都合のいい人間になる、なんてこともあるのかもしれません。
だって直しに直した僕は完璧で、皆に我が振りを直させないだろうからです。
もちろん人間が完璧になるなんてことはないんだから、そんなこともないのはよくわかっているのだけれど、そういう傾向が出てきてもおかしくないのではなかろうか?とも思うのです。
……………
と思ってここまで書いたんだけれど、今ここで思い改めました。
違いますね。
「人の振り見て我が振り直せ」
という言葉には、人の「良い振り」も含まれているでしょう。
でしょうから、人が大変感心する振る舞いをしておられると感じたならば、それも積極的に取り入れて、我が振りを直すということも望めるだろうと思います。
だからもし仮に僕が完璧に近い存在になるような奇怪な出来事があったとしても、誰かがそんな僕を見て「ああこの人みたいになりたいな」と思ってくれればそれで良いのだろうと思います。
要するにお手本であるならばそれでいい。
勝手に、「人の振りを見る」ということは「人の悪いところを見る」ということである、という風に解釈してしまっていましたが、違いましたね。
良いと感じるところは真似して、悪いと感じるところは気を付ける。
それが「人の振り見て我が振り直せ」という言葉の意味でした。
これも一つの思い込みと言えるでしょうか。
そうかもしれません。
ともすると、こうだと思ったこうがやっぱり間違っているものもあるかもしれない。
気を付けなければならないな、と思います。
おしまい