僕に親の資格はない、とか思っちゃう

「日記」という言葉にこだわりすぎて、その日あったことはその日に書くべきだ、という風にどこかで思っていたが、例えばノートに日記を書く場合に、昨日の夜書けなかったから今日昨日のことを書いちゃおう、ということもあるであろうことを考えると、そんなに気にする必要はないように感じるのであった。

 

というわけで、昨日のことを書こう。

 

今年、友達に子供が生まれた。

生まれてから彼に会っていなかったので、別の友達と一緒に、年末で帰省した彼に出産祝いを渡しに行った。

それだけだったらそんなに特別なものではなかったのだろうけれど、僕の妻も一緒に行ったし、一緒に行った友達の奥さんとその子供達も一緒に来た。

お祝いに行った彼は2人目の子供だったし、実家だから奥さんも両親もいらしたので、そのごちゃ混ぜ具合に物凄く親戚感を抱いた。

彼等とは中学からの付き合いだが、こういう風に集まったことは一度としてなかったので、実に特別な集まりのように感じた。

 

僕には子供はいない。

色々な考えがあって、結果いてもいいし、いなくてもいいと思ってる。

まだ揺れ動いてるところであるが、こうしてパパをやってる友達たちを見ているとやっぱりいいなーと思うところもある。

でもなんだかんだ作らないんだろうなーと今は思っている。

 

夢見たこともある。

というより、高校生くらいの時から自然と「自分に子供ができたらこういうことをやらせてやろう」というような発想を色々な場面でしてきた。

この映画を見せてやろうだとか、このゲームを一緒にやろうだとか。

あるいは、子供の前で信号無視なんかをする大人を見て憤りを感じ、自分が親になったらしっかり教育せねば、という思いに駆られた。

そういう意味では願望もあるが、全てが親のエゴであることに気付いたとき、子育ての難しさを痛感するのであった。

 

何が正しくて、何だ正しくないのか。

それを決めていくのは子供自身なのだろうが、親の自分がわかっていないうちに子育てをするというのはどうにも無責任なような気がしてしまう(もちろん信号無視はいけないことなわけだが)。

 

要するに、その資格はまだ自分にはないであろう、ということなのだけれど、そこまで思い詰める必要もなかろう、とも一方で思っている。

子供は(誤解を恐れず言うと)勝手に育つ。

どの道、教育者として完璧になんてなれないんだから、どこかで諦めを作らないと進まない話もあろう。

そういった意味では、ええいままよ、という考え方も大事かなーとか思ったり。

 

そのバランスが僕には難しい。

 

人間としての成長が足らないような気がしてビビッちゃう。

もちろん妻の気持ちも大事であるから、これは僕だけの問題ではない。

それがまた難しさに拍車を掛ける。

 

まあ妻に子供願望があったら話は早かったのだろうけれど、そういう気持ちはないらしいのでそこもまた悩ましい。

 

親は孫の顔が見たいと言う。

あくまでも参考程度に聞いてるが、親孝行をしたいという思いも素直にある。

 

でも結局は僕達次第だ。

 

今は今で好きなのだから、それで別にいいような気もする。

 

そうやって今日も揺れ動くのである。

 

僕は人間である。

 

おしまい