何かを極めたいと思ったときの考え方と取り組み方
昔何かで「読書をするからと言って文章が上手になるとは限らないけど、少なくとも自分の文章の下手さには気付けるようになる」みたいなことを聞いたことがあります。
確かにそうだなと思います。
凄く文章が上手だなーと思う人の本に出合うことがあって、じゃあだからと言って自分の文章が上手くなっているかと言ったらそれはやっぱりわからない、けれど、少なくとも自分の文章がその上手な文章とは違うことには気付きます。
その冒頭の言葉はポジティブな文脈で語られていたと思います。
「だから読書をした方がいい」みたいな。
でも僕はネガティブにも捉えられるんだよな、ということを実感しています。
どんな風かというと、自分の文章の下手さ加減にがっかりしてややもすると文章へのモチベーションが下がる、という具合にです。
たまにYouTubeで楽器の演奏動画とかを見ると、コメント欄に「この動画でギターを辞めた」みたいなことが書かれています。
もちろん冗談で言ってる人もいるだろうけれど、一定数は本当に動画を見てモチベーションが下がってる人もいると思うのです。
「こんな風にはなれないな」ということを痛感してしまう。
何かの能力を上げたいとき、確かに誰かを参考にした方がいいだろうけれど、取り扱い方を間違うと挫折に繋がってしまう。
とりわけいんたーねっつっつーのはそれを助長しているような気がします。
街を歩くと、体感的にですが、昔ほどギターを背負った人を見かけなくなったように感じています。
ギターなんか弾かなくたって楽しいことがいっぱいある、という事実もあるだろうけれど、凄い人を見過ぎて「自分には到底無理」と感じてやらない人もやっぱりいると思うのです。
だけれども、それでも頑張れる、どんなに凄い人のプレイだってなんのその、むしろそれをいくらでも参考にできるなんて最高に素晴らしい環境が整っているのだから、四の五の言わず取り組めば一流のプレイヤーにだってなれるんだぜ!フー!なんて勝ち気で強気に思える人もいるでしょう。
そういう人はどんどん上手くなる。
……………
詰まるところ、すっかり挫折する人ととことんやれる人の二極化が進んでいるのかなーと思いました。
ちょっとかじってる、という人が少ないのかもしれません
やらない人、あるいは辞めた人。
反対に、この環境を最大限生かしてどんどん成長していける人。
勉強も同じでしょう。
勉強は不要だと言って一切勉強しない人、あるいは誘惑に負けて勉強できていない人。
反対に、なんでも勉強できるという環境を最大限生かしてどんどん学んでいく人。
いろいろなところで、いろいろな二極化が進んでいるのかもしれません。
僕達はどっちにも行けるんだと思う。
しかしながら、上の側に行きたいのならば、それなりのメンタルタフネス的なものが必要かもしれません。
絶対にやってやる、っていうモチベーション。
楽な時代に、これはやっぱり難しい。
かく言う僕も、これがとても弱いという自覚があります。
元々「セルフハンディキャッピング」的な性格をしている自覚もあり、勝てないと思ったら手を抜いてしまう癖があります。
「セルフハンディキャッピング」とは、そうやって自分でハンデを設けて、自分が負ける(負けた)ことを正当化しようとする傾向を言います。
例えば「(自分が彼に負けたのは)ただ勉強してないだけ」「ただ練習してないだけ」という風にです。
一生懸命やって負けたら悔しいから、それだったら最初から一生懸命にならなければいい、という発想で、防衛本能とも言えます。
そうすれば、一生懸命やってたら勝てたかもしれない、という希望は残りますからね。
こういうような自分のいけないメンタリティを叩き起こして、この恵まれた環境をフルに生かすことさえできたならば、きっと二極化の上側に食い込むことができるのではないか、などと今は夢見ています。
僕は毎日のように文章を書いて、それを読み返すたびに、なんて下手くそな文章なんだ、と思います。
凄く嫌になるときもあるんだけれど、文章を書くこと自体は本来好きなので、だったら自分で自分を認められる文章を書く方に行きたいのです。
そうあれるよう頑張りたいのです。
ギターを弾く人が、自分の演奏動画を見て、なんて下手くそな演奏なんだ、と言って辞めていたら、育つものも育たないでしょう。
嫌なら辞めればいい、ってもんでもなくて、やっぱり頑張りどころってあると思うんです。
伸ばしたい能力があるのなら、時には歯を食いしばって頑張ることも必要でしょう、と。
まあそこまで鬼の形相になることはないと思うけれど、やれるもんならやってみたいなーって、そんな風に思います。
そうして自己実現できたら、少しその人生はきっとハッピーに向かう。
と信じたい。
のである。
ってね。
思う。
よ。
。
おしまい