良き人生を送るために良い物を

お久しぶりです。

全然ブログ書いていませんでしたが、ブログを書いてみようと思います。

 

覚えていらっしゃるかはわかりませんが、僕は昨月「月に一つのことに集中して取り組むぞ!」ということを高らかに宣言しました。

まずはその結果報告をば。

 

正直申し上げますと、思ったよりは集中できなかったです。

これは「月一」というスタイルが悪かった、というよりは、僕の自律力の問題です。

というのも、一つのことに決めてもいざやろうとすると「ちょっと面倒臭い」という気持ちが勝ってしまう。

これは良くない、宜しくない。

ともすると、先にやるべきことは「自分を鍛える」ということなのではないか、という風にも思いました。

 

あるいは、振り返って見ると、僕の自律心が一番強かったであろう時って啓発的な本を読み漁っていた時だったと思います。

それってきっと、啓発本が自律的エネルギーになっていたのではないかと思います。

そのエネルギーを注入することが僕みたいな中途半端野郎Cチーム(単独)には必要なのであり、それなくしては自律できない、のかもしれない。

そういう本を一日の始まりに読む、というのもいいかもしれない(でもそれにもまた自律が云々ぬん)。

 

……………

僕達人間は比べてしまう生き物だと思います。

平均点を重視し、それよりも高ければ嬉しくて、それよりも低ければ悲しい。

嬉しいを安心という言葉に変えてもいいし、悲しいを焦るという言葉に変えてもいいでしょうか。

 

要するに何が言いたいのかというと、周りが30点くらいの人生しか送っていないとしたら、自分もその30点くらいの人生に満足すると思うのです。

でも周りが80点くらいに人生を頑張っていたとしたらどうだろう。

僕はきっと80点くらいが「普通」だと感じて、やっぱり80点くらいを目指して頑張るのではないか、という風に思うのです。

 

だから、啓発的な本、あるいは哲学的な本とかかな、そういう本ってその著者は比較的点数の高い方々が書いてると思うんですね。

もちろん人生に点数なんてものはないですから、これは便宜的な意味なんですけれども、でも実際怠惰な人もいれば勤勉な人もいますでしょう。

その勤勉な方々が大著を書くのであって、怠惰な人ではそれは書けない。

だからきっとこれを書いた人は大変勤勉な方なのであろうということは容易に推察できるのであり、それに当てられることはやはり重要なのではないか、という風にも思うのです。

こんなに優秀な人がいる、じゃあ自分も頑張らなくちゃな、って。

 

そういう人達との関わりを仮に断ち、仮に怠惰であろう人達と接する時間が長くなれば長くなるほど、それがまた自分の中で「普通」になる恐れがある。

 

客観的な普通はなく、普通とは自分の中で出来上がるものであるわけで、じゃあどのレベルを普通と捉えるかは関わった物事の程度によるのでしょう。

一流に触れれば触れるほど一流に近付けるかもしれません。

三流に満足すれば三流のままかもしれません。

 

じゃあ一流ってなんだろう、三流ってなんだろう。

それを見極められるようになるのもまた、成長が求められるのでしょうね。

 

ならば大著を基本としその上で「月一」スタイルを……(ブツブツ)。

 

おしまい