ヘタクソだって構わないから文章を書くのだ
文章を書く理由、的な話で、人間味を高めたい、みたいなことを書きました。
それは主に「AIに負けないために」というような主張でしたが、もう一点思うところがあります。
僕には、現代というのはもうほとんど出揃ったんだなーという感覚があります。
例えば音楽はどんどんと新しく作られる、にも関わらず古いのは消えない。
語り継がれる音楽はずっと語り継がれるのに、それでも音楽は世界中で作られる。
減らないのに増える。
そう考えた時に、ああ自分は音楽を作る意味がないんだな、と思ったのです。
かなり卑屈に聞こえるかもしれませんが、僕が作るのなんかより圧倒的に素敵な曲を超一流の方達がどんどん作ってくれてるんだから、僕が作る必要性っていうのは一切ないんだなーと。
音楽に限らず絵でも漫画でもなんでもそうですが、もちろん自分が心からそれを愛していて、それを作ることにこの上ない喜びを感じるなど情熱があるのならば、そこに意味だとか意義みたいなことを考える必要はない、というか考えることすらないでしょう。
でも僕にとっての音楽というのは、どうやらそういうことを考えてしまう対象であった。
他の誰が作ってようが関係はない自分はただこれを作りたいんだ!というアツい情熱が僕の心にもあったなら構わず作っていたのでしょうが、残念ながらそうはならなかった。
これで果たしてよかったのか、というと、よくわからない。
もしこういう時代に生まれていなかったら僕にとって音楽とは一体なんだったのだろうか、ということも考えます。
昭和に育っていたならば余計なことを考えないで音楽を作っていたのだろうか。
あるいはそうかもしれません。
実際、人によって時代に合う合わないはあるでしょう。
でもそれは果たしてわからない。
わからないなら、考えてもしょうがない。
結局はこの時代に生きているのだから、この時代で輝ける場所を探すしかない。
探すか、もしくは、作るか。
何をするにも誰かが先行しているのなら、僕は僕で自分でも気付かないような小火なる情熱に薪をくべる必要がある。
その情熱を精一杯燃やして、自分はここにいるぞ!というのろしを上げたい。
今僕は薪をくべています。
それが文章です。
僕の中にあるいくつかの小火の中で一番大きな揺らめきは文章だと思うから、これを大事に育てたいのです。
それはつまり自分の中でまだ確信はないということになるんだけれども、これすらも見逃していたらもう僕には何も残らないような気がしています。
だからいっぱい書いて、上手になって、自分だけの文章を確立したいなーと。
これなくしては生きられない体になりたい(なんか違う)。
そんなことを思う今日この頃りん。
おしまい