将来自分を助ける方法
習慣は第二の天性なり、なんて言葉があります。
習慣化され繰り返されたその行いや考え方というのは、図らずとも芯にまで沁みて、まるで生まれ持った性質のようにその人についてまわる、というようなニュアンスで僕は解釈しています。
ともすると、習慣で形成された僕がその次に習慣化するものは、その第一の習慣が踏まえられたものであり、その次の習慣もまた第一、第二の習慣を踏まえた上で形成されるものかと思います。
じゃあ今の僕の始まりはいつであろうか。
いつから形成されたものであるか。
1年前の僕、5年前の僕、10年前の僕。
果たしてわからないが、しかしあの時の僕がもうちょっとだけ頑張っていてくれたならば、今の僕はもうちょっとだけ立派な人間だったんだろうなーなんて思いを馳せます。
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ならば今の僕は、未来の僕の為に頑張らないといけないなーと思います。
それは使命感のような思いではなく、「やれやれ、未来の自分の為に一肌脱いでやるか」というような、お世話してやるかみたいな慈しみの思いから来るものです。
でもきっと予定では、その時の僕は今よりもちょっぴりとだけ立派な人間になっているはずなので、その頃の僕から見たら今の僕は未熟なはずなのだから、そんな未熟な自分に世話を焼かれたという事実は少しだけしゃくに障るかもしれません。
無論、知ったこっちゃない。
黙って焼かれろ。
人生経験も浅く、若輩者が全く調子に乗りおって、しかしまあなんだ、どうもありがとうな(へへっ)。
みたいに思ってくれたなら嬉しい限りです。
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今改めた習慣が作った僕が新たに作る習慣は、きっと大変立派なものになってるはずだから、そんな未来の僕がお世話する更に未来の僕は恵まれているなーと思います。
おじいさんになっている頃には、多分賢者です。
賢者の石とか作り始めるかもしれません。
でも今から怠惰が続いた暁には、未来の僕はさしずめ怠惰の化身。
マジック・ザ・ギャザリングのクリーチャーとして登場してもなんらおかしくはない(1/1)。
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こんな駄文を書いてる僕は明日何を思うだろうか。
思いの先で何を書くだろうか。
それを読んでまた何か思い書き、それをまた読んで思い書く。
その結果、きっと良い方に転んでくれたなら嬉しいのだけれど、ややもすると行きつく先は変なおじさんです。
そんな懸念は抱きつつも、ちょっとコミカルでユニークでフールな一面を持ってる大人が時には居たっていいじゃない?と言い聞かせたところで、へば。
また次回お会いしましょう。
おしまい