読書とは「体験」である。大袈裟ではない。
『ペンギン・ハイウェイ』という小説を読んだ。
前にも一度読んだのだが、内容がうっすらしてきたので改めて読んでみたのであるが、やっぱりわからない、という感想を抱いた。
というのも、この物語には、タイトルにあるとおりペンギンが出てくる。
普通の住宅地に突然ペンギンが出てくるのだが、そのペンギンの謎を追う、というようなストーリーだ(レビュー記事ではないので詳細は割愛)。
僕がわからないのは、何故ペンギンであるか、という点である。
そのペンギンの役割はもちろん物語上あるが、しかし「ペンギン」である必要がない。
要するに他の動物で物語を作っても良かったのではないか。
と思う。
けれども、ここからが本題なんだけれど、多分恐らく、いやきっと、ペンギンにした理由があるはずなんだ。
意味なくペンギンにしたわけではないと思うのだ。
でも僕には今のところわからない。
小説を読む人はこの辺りどれくらい掘り下げるものだろうか。
僕はあまり小説を読んでこなかったから理解力が低いのかもしれない、とも思う。
それならば理解出来るまで読み込んだり、調べたりするべきなのか。
あまりにも簡単に答えを求めてしまうのも良くないとは思う。
「なんで?」という疑問は、大概調べれば出てくる昨今ではあるが、それでは思考力は養われないし、自分なりの理解というのも得られなくなってしまう。
調べた答えは自分の到達点ではない。
できることなら物語の内容からヒントを得て、例えばこの場合だと「ペンギン」という生き物の生態だとかなんだとかを調べてみたり、宇宙の話だとか生や死というようなディープな話も出てくるのでその辺りも調べたりして、それらの情報を自分なりにまとめ、理解し、解釈して、答えを導き出すのが望ましい。
まるで『ペンギン・ハイウェイ』の主人公のように。
しかしながら、もしかしたら「ペンギン」に意味はないのかもしれない。
作者がただのペンギン好きの可能性も否定できない。
もしそうだったら調べ損だろうか、というと、そうでもない。
小説に限らず本を読むことというのは知識・情報を得ることだけにあらず。
それが本の目的だとしたら、それこそ調べれば内容なんていくらでも出てくるのだから調べてしまえばいい。
小難しい内容の本をわかりやすく解説してる動画なんかもいくらでもある。
でも僕は読書の目的はそこにないと思う。
読書の目的は、あくまでも著者の文章を読むこと、著者の声を聞くと言ってもいい、それを自分なりに理解して考えることにあると思っている。
読書とは「体験」である。
大袈裟ではない。
だから、仮にペンギンについて調べたことが『ペンギン・ハイウェイ』に繋がらないとしても、調べたことに意味がある。
理解しようとしたことに意味がある。
僕はそう思っている。
ならば調べようと思う。
そうすべきだと、答えは今出た。
ペンギンって可愛いよね。
おしまい