気持ちをさらけ出したっていいはずなのに

うちの猫は自分でおもちゃを持ってきて、僕の目の前にぺッと置き、遊んでほしいと訴えかけてきます。

 

いや、本当に遊んでほしいと思っているのだろうか。

もしかしたら、遊んでやらんこともニャいが?とでも言っているのかもしれない。

 

いや、もしかしたら僕のことを親友とでも思っていて、おいニンゲン!一緒に遊ぼうニャん!おいコラ!聞いてるのか!とでも誘っているのかもしれない(親友とは)。

 

僕に彼の本当の気持ちはわからない。

が、彼にも僕の本当の気持ちはわからない。

それは彼がニンゲンの言葉を喋らないからだし、彼にはニンゲンの言葉がわからないからです。

なんて言ったら猫を一方的に責めているような気がするけれど、そんなことはない、他意はない。

これは生き物としての違いです。

 

お互い言葉はわからない、だけれども、お互い行動を見て何かを察しようとする。

そのお察しは間違っているかもしれないけれど、そして事実間違っていることもあるけれど、それでも僕達は諦めず協調を図る。

 

果たして言葉は必要でしょうか。

あるいは必要ないのかもしれません。

 

そりゃあ人間社会を営むには言葉は重要不可欠ではあるけれど、誰かに自分の気持ちを伝えるのに言葉が要らないなんてこともあるでしょう。

場合によっては言葉で誤解を招くことだってあるかもしれない。

どれだけ「好きよ」なんて言ったって、一回の情熱的なハグには敵わない(かもしれない)。

100万回の愛してるなんかよりもなんたらかんたら、ってやつですね。

 

僕はよく気持ちを隠してしまいます。

それは照れから生じることもあれば、緊張から生じることもあるし、社交辞令でそうしてしまうこともある。

本当は好き、本当は楽しい、本当は浮かれている、本当は怒っている、本当は悲しんでいる、本当は寂しいんだ。

 

どうしてそうなってしまうのでしょうか。

別に気持ちをさらけ出したっていいはずなのに。

 

猫は明らかにさらけ出してくれます。

だから僕はそれをできる限り汲み取ってあげたい。

 

猫には、僕の気持ちを汲み取ることはついぞできないかもしれないけれど、それを踏まえた上で行動で気持ちを示したいものです。

 

そして誰かにも同じようにさらけ出し、誰かにも気持ちを受け止めてほしい。

それでも付き合ってくれる人がいたら、僕等は仲間と言えるでしょうか。

 

しかし感情的過ぎても困りものか。

 

おしまい