ここで僕達はまるで恋人のような親友になる
最近、友達とはなんだろうか、親友とはなんだろうか、ということをよく考えます。
例えば僕が相手を別段好いていない場合でも、相手は僕のことを好いてる場合があるでしょう。
反対に僕が相手を好いている場合でも、相手は僕を好いてない場合もある。
それはお互い友達と呼んでいいものか。
間違っても親友とは言えないような気がするけれど、僕も相手もそれに気付かないで「君は僕の親友だ」という感情を抱くこともあると思うのです。
好かれていないことに気付かないで、一方的に好くことによる幸福感。
まるで恋です。
まるで片想いです。
その状況は真の親友という関係にはならず、お互いがお互いを認めた上で本来成り立つものであるならば、親友というのはまるで恋人のようであるな、と思いました。
僕も君が好きだが、君も僕を好きだろうが。
じゃあ僕達は親友だろう。
しかしながら、恋人と違ってその気持ちをすり合わせる機会というのは、友達関係にはあまり設けられない。
なんとなく仲良くなって、なんとなく一緒にいて、なんとなく話している場合もある。
その中でどちらか一方の気持ちが高ぶって「いやー君は僕にとって親友だ」とうっかり口にすることがあるかもわからないけれど、その言葉に対して「いや、俺にとって君は親友とは思えない」なんてことを口にするやつがあるだろうか。
というと、ないと思うのです。
わざわざ否定はしない。
そんなことしたらギクシャクしちゃう。
ともすると、真の親友関係を実感することは難しいだろうと思うのです。
繰り返しになるけれど、僕がどれだけ「あー僕達親友だなー」って思っても、相手はそう思っていないかもしれない。
かと言って「僕達親友だよな?」なんて確認するかと言ったら、もちろんしない。
僕は「僕は君が好きだが、君は僕を好きではないかもしれない」というある種の疑心を抱きながら生きていくことになるだろうから、僕に親友関係というのは育まれないのかもしれません。
じゃあ友達とはなんだろう。
「友達」くらいには呼んでも良いであろう関係は簡単に育めそうですが、親友同様、どちらかが好いてない場合はあるでしょう。
イメージの程度の差はあれど、構造は似たようなものだと思います。
そうすると、僕が誰かと遊びたくなったとき、相手は迷惑かもしれないな、ということもよく過ぎってしまいます。
僕なんかが誘っていいものか、と。
僕の遊びたいという気持ちを押し付けてよいものか。
どこまで僕の気持ちが込められて、どこから相手の気持ちを汲み込めるか。
人と人の繋がりとは簡単なようで難儀なものです。
……………
話は変わりますが、文章も似たような面があります。
今あなたがこの僕のへんてこりんな文章を読んでいるということは、クリックないしタップしてこのページに飛んでくださったのだと推察されます。
せっかく貴重な時間を使ってこうして読んでくださっている以上は、僕はやっぱりなんかちゃんとしっかりそれっぽいものをそれっぽくねるねるねるように尽力したいなーと思うところであります。
でもつまらないようなら読まなくっても良いのです。
時間だけは誰にでも平等に与えられたものですから、僕はこうして文章を好きに書いているけれど、あなたは僕の文章を読むことはお好きでしょうか。
もしそうであるならば今後ともお付き合いいただきとうございますが、もしそうでない場合はどうぞお好きなようにお時間を使っていただきたい。
「そんなことは言われずとも」と思われるかもしれませんが、いや、心情としては本当は僕は「読んでほしい」のです。
せっかく書くんだもの、やっぱり読んでほしい。
だけれども、その読んでほしいという僕の気持ちをどこまで押して良いものか。
この辺も悩ましく思うところなのです。
こんなにコンテンツに溢れた世界で、僕の文章が一体どれほどのインパクトを持つのか。
今のところ水面に水滴が落ちた程度のように思われますから、そんな水滴に時間を割かせてしまって良いものだろうか。
わからないけれど、願わくばその水滴による微かな揺らぎが不思議と心地良く感じてもらえていたらなと思います。
僕は僕で好きに書いて、あなたはあなたで僕が好きに書く僕の文章が好きであるならば、僕達は晴れて恋人でしょうか。
親友でしょうか。
そんな簡単なものではないだろうけれど、好きと好きが成就する環境はここで作られるのかもしれません。
こういう風に出来上がるのかもしれません。
ともすると、そういうものが僕の知らないところでたくさん作られているのでしょうね。
世界は広くて多種で多様でございます。
おしまい