言葉って面白いから思わず振り回したくなるお年頃

僕はもしかしたら言葉が好きなのかもしれない、と思う瞬間がある。

小説を読んでいたりして知らない言葉が出てきたり、知らない表現が出てきたりすると大変興味深く思う。

でもそれは純粋な言葉に対する興味というよりも、こんなユニークな表現があったのか、この表現を日常会話や文章で使ったらさぞそれはまたユニークなことであろう、というよこしまな発想から来るものかもしれない。

 

しかしながら、その気持ちに素直になってみることもまた面白いと思う。

例えばモテたくてギターを始めたとする。

ギターを華麗に弾けたならきっと誰それから関心されること間違いなしだ、というような、ギターではない別の何かの目的があって始めたとする。

だけれども、ギターそのものの姿形は変わらない。

性質も変わらない。

どんな思いがあろうがギターはギターである。

その変わらぬギターに触れたとき、本当にギターの魅力に気付くこともあるかもしれない。

もちろんないこともあるだろうけれども、あるかもしれない。

そしたら晴れてその人の興味はギターそのものに向けられる。

 

ギターに限った話ではなく、そういうような流れを経て人生が変わったという人は、決して少なくはないだろうと思う。

別に「モテ」に限らずね。

 

僕は人生であまり小説というものを読んでこなかったものだから、ここ数年で少しずつ読むようになって本当に色々なことを思う。

日本人として日本語を使ってこれまで生きてきたにも関わらず、こんなにも知らない言葉があり、こんなにも知らない表現があるのかと興味深く思う。

本当に面白いと思う。

 

ところで、この興味に対して思うことは、決して研究したいわけではないんだよな、ということだろうか。

というのも、言語学者的な立ち位置になりたいのではなく、あくまでもその言葉達を「使いたい」のである。

研究したいのではなく活用したい。

 

言うなれば、料理研究家になりたいのではなく、料理を食べさせた相手に喜んでほしいということなのである。

もちろんどちらの立場もどちらの思いも持ってるものだと思うけれど、要するにこれは比重の問題だ。

どちらに傾いてるか。

つまり、料理そのものに魅了されて味の研究をする人と、相手を喜ばせたいという強い気持ちから料理を研究する人の二通りがあるのだろう、と。

 

それで言うと僕は後者である。

言語に対する興味ではなく、コミュニケーションを前提とした言語に興味がある。

 

子供ってふと大人びた言葉を使ったりするではないか。

覚えたての言葉を使ってみたくてしょうがない思いというのもあるだろう。

僕は今そういう気持ちである。

 

面倒事に対して「骨が折れる」ということを「骨である」と表現してる文章を見たことがあるが、僕はその表現を覚えてから日常会話でも使っている。

まるで木の棒を拾って喜び振り回す子供である。

覚えて使えることが嬉しいのである。

 

そういう言葉が血肉として溶け込んだとき、そこから紡がれる言葉はまたユニークなものであろうと思う。

その練習の場としては、こういうブログはうってつけなのではないだろうか。

 

おしまい