「考える」ということについて考える

お久しぶりーふでございますおさん。

全然ブログ書いてなかったんですが、久しぶりに何か書いてみようと思います。

 

最近「考え事」に関する本を読んでいます。

人間は考え事をするが、それは言葉で考えているのか、それとも映像的に考えているのか。

言葉で考えているのならば、それは独り言なのか、それとも内なる自分との会話形式なのか。

そういうような観点からいろいろ考えていくわけですが、この本を読んでいて一つ気付いたことがあったので、それを簡単にまとめてみようと思います。

 

「考え事」に関して改めて考えてみると、なるほど自分の考え方は文章的かもしれないなーと思いました。

というのも、今まさに書いているこの文章のように僕の頭は働いているように思われたのです。

 

でもそれはあくまでも形式の話。

実際は文章を書くとき、違うなーと思って書き直すことは多々あるし、書くことがなくなって手が止まることもままあります。

だから実際にはブログの文章のようには考えられていない。

恐らく断片的なイメージが繋がって、頭の中では文章を書いてるように思い込んでいるだけなんだと思います。

 

そう考えた時に、やっぱり考えたことを文章化するのは大事なことなのではなかろうか、という風に思ったわけです。

頭の中で考えて、考え込んだ気になって満足してしまうかもしれないけれど、それは果たして本当に考え込めたのだろうか。

多分それでは浅くて、それを吐き出して、文章化するときに考えたことが(初めて)まとまり、自分の考えを客観的に見ることができるようになる。

客観的に見ることによって更にそれを材料に考えを煮込める。

そうやってどんどんと考え事が洗練されていくんじゃないかな。

テーゼを出して、自分でアンチテーゼを考え、ジンテーゼに昇華させる。

 

そして、そういう訓練することによって、より考え事が上手くなるのではないかという期待もあります。

文章が上手ければそれだけ考え事も上手いはずです。

反対に語彙力が少ない人、文章が下手な人は考え事も比較的簡素で、より断片的になるのではないかという風に思います。

だって僕達は知ってる言葉でしか物を考えられないだろうから。

 

生き方としてどっちがいいかは客観的には言えないだろうけれど、僕はなんとなく前者の方がより深く人生を楽しめるのではないかという風に思うので、前者を目指したい。

 

それにはどうしようか。

本を読んで、考え事をまとめよう、と。

そんなようなことを思い、久しぶりに筆を執ったのでした。

 

おしまい