感じの悪い人って感じが悪いんだなーと思った話

僕は感じの悪い人が苦手です。

そりゃあ感じの悪い人が得意なんていう人はいないとは思うけれど、じゃあ感じの悪い人にとっての苦手な人って誰なんだろうと思います。

感じの悪い人にとっての良い人って誰なんだろう。

 

僕にとっての良い人は感じの良い人だろうか。

ある意味ではそうだが、腹は黒い可能性もあるのだから、それは結局表面的な印象でしかない。

 

とはいえ、例えばそれがお店の店員さんとかだったら、腹が黒かろうが白かろうが僕が実のところを知る由はないのだから、仮に黒かったとしても僕の前だけでは聖人君子のごとく心真っ白な姿を見せてくれたらそれでいいのです。

後はどうぞご勝手に、友達にでも腹の黒々としたおぞましい姿を見せてくれていたらいい。

 

感じの悪い人って誰にでも感じの悪い人なのだろうか、という疑問もあります。

僕は頑張って感じの良い人を演じようとしてぐちゃぐちゃになってしまうタイプですが、さて、僕の本当の姿は感じの良い人だろうか、感じの悪い人だろうか。

仮にその感じの悪い人が誰にでも感じの悪い人であるのならば、その人の素の姿は「感じの悪い人」なのだし、そもそもわざわざ感じの悪い人を演じる稀有な人はおられまい。

本当は感じの良い性格をしているのに感じの悪い人を演じるなんて人はいるわけがない。

つまるところ感じの悪い人はきっと生粋の感じの悪い人なのだろうと。

 

なるほど、感じ悪いな。

 

じゃあ感じの良い人を演じようとする僕は果たして本当に感じの良い人なのでしょうか。

腹は黒いでしょうか。

感じの良い人になりたい、というその純粋無垢な姿はむしろ心が白いでしょうか。

 

かつてBUMP OF CHICKENの藤原さんは「優しくなりたいと願う君は誰よりも優しい人」と歌いましたが、なるほど、その理屈で行くと僕は感じの良い人になりたいと願う感じの良い人ということになるでしょうか。

違うか。

 

なんにせよ、でもきっとそれが素ということではない。

感じの悪い人が素で生きられているとするならば、僕は演じながらにして生きているとも言える。

 

どっちが生きやすいかと言ったら前者のような気がする。

しかしながら、それが健全な姿とも思わない。

 

思ったように、欲望のままに、生きたいように生きることが仮に素敵だとするならば、人様に迷惑を掛けても良いということになるでしょう。

一面的にはまあ正しいだろうけれど、それで自分が望む世界を手に入れられない場合もあるし、あるいは手放すことになるのだとしたら、果たしてそれはその人にとって幸せな生き方と言えるだろうか。

好き勝手が幸せとは限らないでしょうに。

 

こうしたい、ああしたいでは世界は変わらず、こうありたい、ああなりたいという気持ちが世界を良くするように思います。

それは「自分の世界」という意味で。

 

その文脈で行くと、あれ?好き勝手に文章を書くことは世界を良くしないということになるのかしら。

 

うーん。

 

前提が白いのなら、そこから生まれる心の声はきっと白くありたいと思います。

ともすると、好き勝手な文章が世界を良くする可能性もあるのか。

 

素とはどこに。

 

おしまい