僕が目指したい文章
果たして文章のあり方みたいなものがあるのか、ということをよく考えます。
というのも、文章は誰かの為でなければならないのか、誰かにとって役立つものでなければならないのか、そもそも文章とはなんなのか、言葉とはなんなのか。
いろいろなことを考えていると、自分はどんな文章を書くべきなのか、というか、文章を書く必要はあるのだろうか、なんてことも相も変わらず考えてしまいます。
そうするとなんだか得もいわれぬ虚脱感みたいなものを覚えたりもするのですが、いろいろな人の文章を読んだりしていると「うん、まあ自分なりに書けばよかろう」というようにまた思い改めるのでした。
……………
読んでくれる「誰か」がいれば僕はそれでいい、というようなことも書きました。
けれど、それを踏まえた上で「じゃあ何を書くのか」という問いが立つ。
例えば友達が悩んでいるのであればその悩んでいる事柄について、僕も一緒になって考えるからこそ書くべきことが浮かぶのであって、それがひとっつもないこの状況はつまりヒントがない。
手がかりと言うか、足がかりと言うか、そういったものがない。
だから、考えます。
文章っていうのは一体なんなのだろうか。
僕みたいにテキトーに思いのままに筆を走らせるような文章に何か意味があるのだろうか。
楽しんでもらえるのだろうか。
そういうようなことを踏まえて文章について考えていると、ふと「随筆家」という言葉が浮かびました。
本当にふと思い浮かんだだけなのであって、恥ずかしながらこの言葉が何を指しているのか僕は知りませんでしたから、ちゃんと調べてみることにしました。
そうしたら『Wikipedia』にはこのように書かれていました。
文学における一形式で、筆者の体験や読書などから得た知識をもとに、それに対する感想・思索・思想をまとめた散文である。
『日本大百科全書』にはこのようにも。
随筆とは、形式の制約もなく内容も自然・人事・歴史・社会に関する見聞・批評・思索あるいは研究考証など、多岐にわたって筆の赴くままに書き記した散文の著作(以下省略)
あれ?
僕が書いてる文章のことかな?
と思いました。
いや、実際の随筆家の方や読者として精通してる方がみたら「こういうのは随筆とは言わない。うぬぼれるな小僧」とお叱りを受けるかもしれないけれど、僕の心持ちとしてはこのようなものを持ち合わせています。
とりわけ「筆の赴くままに書き記した散文」というところに親近感を覚えます。
場合によっては話がまとまるように書くときもあるけれど、基本的に思ったままのことを構成考えず書き綴るのが僕の本領発揮スタイルと言いますか、一番書くのが楽しいなと思うスタイルです。
これを散文として何を散文と呼ぶのか。
いや、一応「散文」についても調べておこう。
とにもかくにも、少し安心したのでした。
こういうものが意味を成す領域があるんだな、と。
ともすると、今がどれだけ稚拙であったとしても、この極地に行けば何か意味を成すのかもしれない。
なるほど、随筆家か。
なんかいいな。
と思いました。
……………
一般的に言う「エッセイ」がそれに近い言葉のようですが、厳密には違うようです。
中には「随筆=エッセイ」という風に解説してるものも多くありましたけれど、なんとなく抱いた僕のイメージも異なりを持っています。
とは言え僕自身そんなにエッセイの類も読んでこなかったので、そのイメージは間違っているかもしれません。
でも仮に僕が「エッセイストか」と問われると、なんかちょっと違うような気がするのです。
なんだかむず痒い気がしてきます。
じゃあ「随筆家か」と問われれば、まあそれも違うのだろうけれど、個人的にしっくりくるのがこっちでした。
少なくとも僕が持つイメージで目指したいものは随筆家です。
……………
繰り返しになるけれど、こんなのは随筆ではないのかもしれない。
けれども、自分の書きたい文章がもしかしたら随筆と呼ばれるものであるならば、それを目指していきたいなと思います。
いつか随筆になったらいいなと思います。
どうやったらそういうものになるのかな。
そんなようなことを考えながら練習してみます。
おしまい