僕なんかおやすみマン

こんばんは。

さっきまで一生懸命文章を書いていたのですが、なんか違うなーと思ったのでボツにしました。

1時間くらい掛けて書いたのだけれども、違ったものはしょうがない。

 

文章を書くにあたって「間違ったっていいじゃない、にんげんだもの、みつを」みたいなことを書いたこともありましたが、積極的に間違うつもりはないので、それが間違っているものだと判断された場合にはやむなくお蔵入り。

ならばその掛けた1時間は意味がなかったのか。

 

そんなことはないでしょう。

僕は確かに1時間掛けて頭を働かせていたのです。

 

どうしたらわかりやすくなるのだろうか。

どうしたらこの思い伝わるだろうか。

どうしたら誤解がないだろうか。

どうしたら面白いだろうか。

どうしたら変だろうか。

どうしただろうか。

どうしたろか。

どったの。

どっ(わはははは

 

そういうようなことを考えつつも、考えに行き詰まり、あれ?そもそもこの考え方間違ってないか?ということに気が付く。

恐らくそれは一人頭の中で考えていただけでは気付かなかったことであり、誰かに読まれることを前提に文章を書いていたからこそその考えは深みを増したのである、と僕はポジティブに解釈しています。

そもそもとして僕の文章を書く目的には「頭を働かせる(良くする)」というものが含まれていますので、それが一つ達成されたと考えれば決して無駄ではない。

これは決して強がりなどではない。

強がりではない。

つ、強がりじゃないんだからね!?(必死)

 

隙間時間を使って何かをすることが今時のライフハックと言いますか、賢い生き方である、的な主張をホ○エモンを筆頭に色々な人がしていると思います。

今はスマホがあるんだからどこでもいつでもニュースをチェックできるよね、SNSができるよね、ゲームができるよね、ブログだって書けるよね、ね、ね?ね!?という具合に。

 

でも僕はこの考え方に懐疑的です。

そんなに頭の中情報を詰め込んだらパンパンになって破裂しちゃうんじゃないかと思うんです。

もちろん全ての情報を処理できる天才君も世の中にはいらっしゃいますことでしょうし、これからの時代はそういう生き方が当たり前になるんだから今から体を慣らしておけ!という主張もまあわからなくはない。

わからなくはないけれど、本当に人間に順応できるんかいな。

ましてや、子供だったらいざ知らず、大人の僕達が後天的に。

 

隙間を埋めるように常に何かに触れている状態で、果たして考えは深まるのでしょうか。

僕は一回空っぽにして、物思いにふけることを推奨したい。

物思ってる時点でそれは空っぽじゃないだろ、という揚げ足取り野郎Cチームのことは無視することとして、とにかくインプットをなくしてみる。

これからの時代を考えたら情報を増やせ、ではなく、こんな時代だからこそ少し脳を刺激から休ませてあげるべきなのではあるまいか、というのが僕の主張です。

 

それには大自然に身をゆだねてみるのもいいでしょうし、運動するのもいいでしょう。

朝起きてまずスマホ、ではなく、天井でも見ながらボケーっとしてみたらいい。

天井のシミがお化けに見えるかもしれない。

 

ボケーっとしてたら自ずと何かをぼんやり考えて、なんでだろうなーってこととか、どうしてだろうなーってこととかが一つや二つと出てくると思うのです。

そこで考えは巡ってゆく。

 

まるでベルトコンベア式に情報が流れてきたらそれは処理で手一杯。

それより自前の動かぬテーブルを前に、物を一つか二つ置いてみる。

 

それを手に取って観察してみようか。

 

不思議である。

 

なにゆえかように不思議であるか。

 

うーん。

 

まっこと不思議である。

 

と気付く。

 

テーブルの広さは地頭の良し悪し次第。

置き物は自分の知識。

観察力は思考力。

 

文章を書くことは、その置き物を自分で作ることに等しい。

そういうような発想で僕はブログを書いています。

 

隙間時間にブログを書くのも確かに悪くはないけれど、僕はドシッと構えて書きたいです。

隙間時間って一般的に暇ってことなんだろうけれど、暇は暇で大事な時間だと僕は思うから、暇を暇として僕は楽しみたい。

そして脳内で手遊びをする。

その手遊びがブログのネタになったりするわけです。

 

この文章も一種の手遊び。

まるで粘土をあてもなくこねるように書かれたこの文章は、確かにいびつで目もあてられないかもしれないが、唯一無二ではあるだろうという自負はある。

 

その価値は読み手にゆだねることとして、僕は寝ることとする。

 

おやすみマン。

 

すや。

 

おしまい