僕が文章を書く理由のうちの一つ

僕がブログを書く理由はいくつかありますが、その内の一つに「人間味を育てたい」というものがあります。

というのも、これからの時代はどうしたってAIが台頭してきます。

最近もAIが描く絵の技術が向上したことで話題になってたように思いますが、そうやって色々な分野でどんどんと彼等は技術を高めて、どんどんと人間の活動領域に入ってきます。

そうするとかねがね論じられている「人間の仕事が減る」というものが現実味を帯びてくる。

もちろん全部が全部機械に置き換わることはないと思うけれど、その数は減ってくる、というのは色々な分野でAIが導入されていることを見ると明らかでしょう。

 

そうなってくると、一体何が人間にできるのか?という話になってくると思います。

人間に何ができて、AIに何ができるのか。

 

AIが得意なことは計算です。

膨大なデータを基に、人間は何を求めていて、人間は何をしたら喜ぶのかというデータを出し、それに基づいて絵を描いたり、音楽を作ったり、文章を書いたり、接客をしたり、資料を出したり、文字通り計算したりする。

果たしてそれに人間は太刀打ちできるのか、と言ったら、やっぱり難しい。

同じ土俵に立つのは厳しい。

 

じゃあどうしていこうか。

僕はもうより「人間味」というものを大事にしていくほかないのではないか、という風に思うわけです。

 

仮にAIが、人間にとって最高だと思われる音楽を作れるようになったとしましょう。

誤解を恐れず言うと音楽はある程度計算で作れるので、その未来はそう遠くないと個人的には思いますが、でもじゃあ人間自身そればっかり聴くかと言ったらそうはならないと思います。

世の中には魅力的な人というものが一定数いて、そういう人達はその魅力を最大限に発揮して、やっぱり魅力的な音楽を作ると思います。

そこに我々人間は何を感じるかと言ったら、音楽の良し悪しだけではなく「その人が作った」という事実(情報)に価値を見ると思います。

それこそクラシック音楽愛する人達は、その作曲家の生い立ちや人柄などに思いを馳せて音楽を聴きます。

ベートーベンはきっとこんな思いでこの音楽を作ったのだろう、ああ、なんて素晴らしいんだ、って。

それはつまり音楽を音として聴いてるだけでなく、そこに人間のドラマを見る。

ともするならば、どれだけAIが素晴らしいものを作れるようになったとしても、人間味溢れる作品に人は魅了されると思うのです。

 

例えば僕のこの文章をデータ化して、この人はこういう風な文章を書く傾向にあるぞ、というパターンをAIが見付けたとして、まるで僕が書いたかのような文章を書けるようになったとしましょう。

果たしてその文章に何か意味はあるだろうか?というと、ないでしょう。

僕の文章は、僕が実際に感じたことや考えたことがあるからこそ意味を成すのであって、僕の文章を真似して書いたのでは意味は生じない。

AI文に知識が含まれていて、それが誰かにとって意義のある文章になることは往々にしてあるだろうけれど、そこにドラマはない。

知識が欲しいならウィキペディアでも見ればいいし、本でも読んだらいい。

 

いや、それがAI文に置き換わるってこともあるのかな。

ウィキペディアという情報を読むよりもすっと不思議と自然に頭に入ってくるようなわかりやすい文章で講義してくれる可能性は確かにあるかもしれない。

なるほど。

 

まあ知識の話はとりあえず置いといて、僕は僕であるということを大事にしたいから、間違ったっていいし、ヘタクソだって構わないから、文章を書いていきたいのです。

色々表現方法はあると思いますが、僕にとって一番やりやすいのが文章かなーと。

 

僕達はデータではないから、生き物であるということを大事にして生きていきたいものですね。

 

おしまい