普遍的な良いにまみれたい

書かなくなって早何日?(聞いた

お疲れ様です、ご無沙汰しております、拝啓、お元気ですか?僕は便秘です(子供か

 

気が抜けると一気に書かなくなってしまうのは僕の悪い癖で、是非直していきたいなーなんて思っておりますが、まあのんびり書いていけばよかろうもん、とも一方でおじいさんのように思っていたりもします。

人は誰しもがダブルスタンダードでありまして、相反する気持ちを持っているものなのだと思います。

でもそれに甘えていては成長は見られないだろう、とも思ったりもします。

それもまた相反しておりましょうか。

 

夜、外の音を聴いております。

お車が行き交う音が鳴り響き、僕はそれが大変に心地良く思います。

昼間の喧騒があってこそ夜の少し静かな感じが好きなのであり、その喧騒がなくては得られない感情かもしれません。

でも今の家よりも、実家で聴こえる音の方が僕は好きでした。

 

僕の実家では、もう少しだけ車の音が聴こえました。

でもそれは随分と遠くの方で聴こえるものであり、そのかすかに響く街の音とでも言えばいいでしょうか、人の生活の営みとでも言えばいいでしょうか、そういう音がほのかに聴こえるのが好きなのです。

あんまり近いと鬱陶しいし、あんまり頻繁でもやっぱり鬱陶しいけれど、ちょっとくらいは鳴っていてほしい、というわがままボウイです。

 

それが今住んでる場所と具体的にどういう風に違うのか、音の数と音量で解説いたしましょう。

 

今住んでる家は、音の数が少ないです。

頻度は高くない。

しかしながら、道路が近いので一つひとつの音量がでかい。

比率で考えると3:7みたいなイメージです。

 

一方実家は、音の数は多いけれど、音量が小さい。

その比率は9:1って感じです。

ずっと車の音が聴こえるけれど、ずっと遠くの方で鳴っているので全く気にならない。

みんなが生きている音がかすかに聴こえてきて、僕はなんだか心地良い。

夜の涼しい風を浴びながら、(実家の)外の音を聴くのが僕は滅茶苦茶好きでした。

 

今は少しうるさいことが多いけれど、暑くなりかけの時期の夜の涼しさは相も変わらず好きです。

ずっとこの時間が続けばいいのになーと思いつつ、でもそれとは反するものがあるからこその有難味であろうか、とも思ったり。

そう、文字通り「有り難い」と感じているのだとしたら、それはつまりいつもはそうではないということなのだから、やっぱりそれありきの感情なのだと思います。

 

でも普遍的に人間が「良い」と感じるものがあるのだとするのならば、そして僕にとっての「良い気候」が今のこの状態であるのだとするのならば、この気候で生きていくだけで僕はずっと幸せを感じられるのかもしれません。

 

気候だけでなく、全てがそうなのなら、自分の普遍をたくさん見付けたいものです。

 

おしまい