後悔のない生き方とは?
昨日、同級生と遊びました。
同級生と遊ぶというのは、ただ「友達と遊ぶ」ということとは違うように思いました。
というのも、「友達」として以上の関係がそこにはあるから、「友達」というだけでは得られない感情がある。
それこそ思い出話とか。
あるいはその頃にしか出せなかったノリとか。
子供の頃の記憶を共有してるから、大人になった今でも子供になれる、そんな間柄は彼等だけでしょう。
もしかしたら子供の頃に出会ってなくて、大人になってから彼等に出会っていたらここまで遊ぶ仲にはなっていなかったかもしれません。
もちろんそしたら今度は違う友達と僕は仲良くしてるのだろうし、どっちが良くて悪いかなんていうのはついぞわかりませんが、なんにせよ今は当たり前にある今でないんだなーということをよく感じます。
友達が違えば遊び方も違うだろうし、遊び方が違えば僕が見てきた世界というのもきっと違っていたと思うし、見てきた世界が違うのなら僕自身もきっと違う。
今の僕を作ったのは彼等という存在があったからに他ならないし、僕も彼等に何かしらの影響を与えているのでしょう。
そんなようなことを考えると「付き合う友達は選びなさい」みたいな、世の中の英才教育的ママンの言い分もわからなくもない。
付き合う友達によって人が変わるなら、良くない友達と遊ぶのはやっぱり良くないようにも思う。
でもその良い悪いって主観だから、客観的に悪く見えたって本人にしてみたら良いことであるかもしれない。
もちろん逆もまた然りで、本人は悪いと思っていても客観的には良いかもしれない、後悔が生まれるかもしれない。
人って難しい。
果たして、ここから何が生まれるでしょうか。
今の僕だから生まれる間柄が、人にも物にもコンテンツにもあるというのなら、触れられるだけ触れておきたいように思います。
でももう少しだけでもちょっぴりと大人になった先で触れた方が響く何かもあるのかもしれない。
もっと早くに出合っていた方が良かったものもあるだろうし、まだまだ機が熟してないものもあるのでしょう。
そうやって考えると最善なんてわからないんだ。
わからないなら、今思う最善を尽くすしかないのか。
少なくともやれるだけのことをやった結果であるならば、それがどのような結果であろうとも「これでいいのだ」と言えそうな気がします。
人が人生で後悔することとして「失敗したことよりもチャレンジしなかったこと」ということがよく言われますが、それに似たようなものだと思います。
最善が後から見て本当に最善だったかはわからないけれど、そしてそれは確かに失敗だったかもしれないけれど、どうせわからないからと腐ってチャレンジしなかったことを後悔するよりも、その時思う最善を尽くして失敗する方が得るものはあるでしょう。
そうやって努力の方向性みたいなものを少しずつ修正していって、人は成長してゆくのではなかろうか、などと思います。
ともあれ、楽しかったです。
おしまい