クレヨンしんちゃんの映画を観て感じた母なる不思議
『クレヨンしんちゃん 電撃!ブタのヒヅメ大作戦』という映画をご存知でしょうか。
名前のとおり「クレヨンしんちゃん」の映画なんですけれども、僕は小学生の時からなんべんも観ているので、大変馴染み深い映画だったりします。
そんな映画を最近改めて観てみたのですが、それで少し思い出したことがあったので、ここに書きとめておこうと思います。
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僕は当時、この映画を観るたびに毎回のように泣きそうになってたんですね。
あのぶりぶりざえもんが「じゃあな」って言うシーンです。
まあ涙を流すまでに至ったことは一度もなかったように記憶していますが、目頭が熱くなっていたことは間違いないことをここで告白します。
さて、僕の母はとっても涙もろいです。
ドラマとか映画とか小説とか、何か物語で泣き所があるといつも泣いている、というのが小学生当時の僕の母の印象でした。
だから、子供の僕が泣くようなシーンだったら、涙もろい母なんてあっという間に号泣すること請け合いだろうと思っていたのです。
ところが、母はただの一度も『ブタのヒヅメ大作戦』で泣くことはありませんでした。
僕は子供ながらにそれが不思議でたまらなかった。
なんでこんなにも僕が泣きそうになるくらい悲しきシーンがあるというのに、あの涙もろいことで有名な我が母君は泣かないのか、と。
でも僕がこうして大人になってみて、改めてこの映画を観てみると、なるほどな、と思うのでした。
というのも、全然グッと来なかったのです。
小学生のときは毎回グッと来てたのに、いまや超涙もろくなったという自覚のある僕ですが、むしろ全く反応を示さなかったのです。
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それが面白いなと思うのでした。
子供の方が泣けるシーンというものが確かにあって、大人の方が泣けるシーンというのもある。
それは心の変化がもたらすものなのか、知的レベルの違いによるものなのか、いろいろ要因はありそうなものですが、いずれにせよ、なんか違うんだ。
しかもその違いというのは、ストライクゾーンが広くなるというようなイメージではないように思います。
というのも、例えばそれを数値化するとすると、小学生の時の僕は感動レベル8で泣けてたとします。
一方、涙もろい印象のある母は感動レベル2とかで泣いていたように思いました。
つまり、僕はレベル7くらいの相手だったらぎりぎり耐えられるけれど、レベル8になると負けちゃう、泣けちゃう。
一方、母はレベル2程度で泣いちゃうんだ。
それが当時の僕の印象です。
でも、僕が毎回泣きそうになっていた『ブタのヒヅメ大作戦』はきっとレベル7,8相当であるはずなのに、母はどういうわけか泣かない。
レベル2とかでも泣いちゃうのに……!
つまるところ、感動的領域は広がるものなんじゃないんだな、と。
僕だって「超涙もろくなった」とは言ったものの、かつて感動していたものが全然ピンと来なくなったことを考えると、それは果たして本当にもろくなったと言えるのかどうか。
多分そうではなく、感動できるポイントと言いますか、ゾーンと言いますか、エリアと言いますか、そういうものが移りゆくものなのでしょうね。
1~3が泣ける場合もあるし、4~6が泣ける場合もある。
7~9が泣ける場合もあるし、あるいは飛び飛びかもしれないね。
わかんないけど、ひとえにもろいってこともないんだな、と。
そしてその変化を自ら体験して言えることは、今後もその変化を味わうタイミングってあるんだろうなとも思います。
今は感動できないことが感動できたり、今は感動できることが感動できなくなったり、そんな風にして心は変化していくのでしょう。
それが良いことであるか悪いことであるかは解釈次第ですが、それが心の豊かさによって生じる変化ならば良いこととします。
おおむねそうやって崇高さっていうのは培われていくのではないでしょうか。
そうなの?
どうなんでしょうね。
おしまい