「良い」とか「悪い」とか
BUMP OF CHICKENの曲に『宝石になった日』という曲があります。
BUMPの9割以上の曲の作詞作曲は、ボーカルの藤原さんによるものですが、彼の作品に対する姿勢は「解釈は聴き手に委ねる」というものになります。
だから、彼がどんな思いを込めてそれぞれの曲を作り歌っているのかというのは、僕達ファンの解釈次第ということになりますから、この『宝石になった日』という曲にも同じことが言えます。
しかしながら、この曲の解釈を僕から(勝手に)語らせてもらうならば、この曲の詞は「亡くなったペットに向けられたもの」だと解釈しています。
お別れを連想させる歌詞なので、それが恋人だったり、あるいは家族だったり、そういう解釈も世間では見受けられるし、人によっては「夢」なんて言ったりもします。
でも僕はそのどれにもピンとは来てなくて、多分ペットだろうなと思うわけです。
だから、この曲を紹介する際には「BUMPにペットを思って歌った曲があって~」という風に紹介するのですが、つい最近にもそうやって紹介したのでした。
……………
その紹介した相手は、かねてよりBUMPの曲を聴いており、『宝石になった日』も当然のことながら知ってはいました。
ただ、ペットに向けられたものとして歌詞を読んだことはなかったそうなので、踏まえて改めて聴いてみたそうです。
そしたら、彼は言いました。
「今までピンと来てなかったけど、対ペットとして聴いたらめっちゃいい曲でした」
「お気に入りの曲がまた一つ増えました」
うんうん、良かった良かった。
と思うと同時に、やっぱりそういうものだよな、と思いました。
……………
というのも、曲はただそこにあるだけなのです。
『宝石になった日』という曲はずっと前からあるし、彼も『宝石になった日』という曲を前々から聴いていた、にも関わらず、ここに来て、解釈一つで「ピンと来てなかった曲」から「お気に入りの曲」になったわけです。
当たり前と言えば当たり前だけれど、良いも悪いも捉え方次第だよな、と。
ともするならば、今僕が何かに感じる「なんでこれがこんなに流行ってるんだろう?」という風な疑問だって、きっとその背景がある。
僕には感じられていない(あるいは知らない)何かしらがそこにはあって、しかしそれを多くの人が感じているのだと思います。
じゃあきっとあれもだし、じゃあきっとこれもです。
反対に、僕が良いと感じるものには僕なりの解釈の背景があるのであって、それを感じていない人にとってはやっぱりそれはどうでもいいものになるのだと思う。
僕にはきっと大事だけれど、誰かにとってはどうでもいいものになる。
僕にはきっとどうでもいいけれど、誰かにとっては大事なものがある。
ただそれはそこにある。
それをどう取り扱うかは僕達次第。
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ともするならば、知識が多い方が世界はきっと楽しい。
それが背景にもなるし、それが踏まえられたものも楽しめる。
パロディも楽しめるし、リスペクトも楽しめる。
そういうものが理解できないと、その作品はやっぱりただの作品です。
『宝石になった日』が仮に正しくペットの曲だとしても、その事実を知らなければ違うものとして聴くことになるんだし、実際にペットを飼ってみないことにはどっち道ピンと来ないかもしれない。
知識とか、体験とか、いろいろな経験を重ねることによって、世界は広く味わい深いものになるのではないでしょうか。
今つまらないものが、明日には面白いものになるかもしれない。
今面白いものが、明日にはつまらないかもしれない。
そうやって自分の価値観を養っていく。
その過程で普遍的なものが見付かっていく。
そうやって人間性と言いますか、世界観と言いますか、芸術的センスとでも言えばいいものでしょうか、そういうようなものが育っていくのかもしれません。
「これは “確かに” 素晴らしい」
そういう作品に出合えたならきっと幸せです。
おしまい