綺麗に見られたいお年頃

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たりらりら。

 

姪と遊んできました。

まだ4歳のいたいけな女の子です。

 

自分で言うのもなんですが、僕は大変彼女に気に入られているので、実家に入った瞬間「まっしーーーーーー!!!!」と駆け寄ってきて、飛び跳ねながら僕のことを迎え入れてくれます。

そして抱っこをせがまれます。

子供のこういう気持ちに素直なところは本当に可愛らしいものだなーと思うと同時に、大人になるにつれて失われるこの姿ってもう取り戻せないのかしら、と少しだけ寂しくなります。

 

でも例えば僕が大好きな人や物を前にして、「うわーーーーい!!うわーーーー!!」

って飛び跳ねながら喜ぶ姿は結構危ない人のように思えます。

そう考えると大人は大人としての振る舞いがあるのかなーなんて、思い直します。

 

でもそれだって世間の空気が作ったものであるとするならば、仮に僕以外のみんなもきっとそんな風に自分の気持ちに素直になるのであれば、赤信号みんなで渡れば怖くない、みたいなもので、恥ずかしいものにはならないのかもしれません。

 

江戸時代にマナーとされていたことがあるとして、それが現代に通用しないものだとして、僕がうっかり江戸時代に迷い込むようなことがあったとしたら、僕はそれだけで多分変人扱いをされるでしょう。

江戸時代の人がまかり間違って現代に来てしまったとき、その人は一体どんな行動をするかはわからないけれど、車の前に飛び出してキキー!「ばっきゃろー!!」なんて流れがあるとするならば、江戸人だって立派な変人です。

 

詰まるところ常識とはその時の空気が作り出すものなのでしょう。

テーブルの上でお箸を持ってご飯を食べるのが良しとされる日本で、例えば床に皿を置いて手で物を食べる文化の人がそのままにしたら、日本でそれはきっと咎められる行為になるのでしょう。

 

「人としてあるべき姿」なんてものがないとするならば、「大人としても」ないし、「日本人としても」ないの、かしら?

 

客観的な正しさがないのだとしたら、主観的な正しさを確立せねばならないように思います。

僕が昔「マナー」という存在に疑問を抱いていたあの若かりし頃、フードコートで女子高生がお母様と一緒にご飯を食べているのを見ました。

僕はその女の子に思わず目を奪われたのですが、その奪われた理由は立ち振る舞いが綺麗だったからです。

お顔がどうこうとかではなく、姿勢や所作がただただ綺麗だったんです。

椅子に座ってご飯を食べてるわけですが、背筋がピンと伸びていて、まさに「上品」という言葉がぴったりの振る舞いを見せていたのです。

 

その時人知れず思ったのでした。

ああ、マナーがどうこうはさておきながらも、こうやって綺麗に見せる意義はあるのかもしれないな、と。

 

確かに、椅子に膝を立てて、肘をテーブルに乗せ、クチャクチャ音を立てながら食べたからって何があるってわけでもないんだろうけれども、どっちがいいかって言ったらそりゃあ綺麗な方だと思うんです。

 

もちろん綺麗の定義も人それぞれではあるだろうけれども、だからこそ求める「正しさ」も人それぞれなわけであって、自分なりのものを見付けていくのが人生なのかもしれません。

 

だから学びって必要だと思うな。

 

おしまい