僕が思い描く思い出の積み重なり方

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昨日、思い出はなくならない、積み重なり、取り出せなくなるだけなんだ、と言ってる人もいる、という話をしました。

実際にそうなのかはわからないけど、確かに言われてみればそんなような気がするなと思います。

 

それがどんなイメージか、きっと人それぞれいろいろなイメージを持つと思いますが、僕はこんな風なイメージを持ちました。

容器があって、その中に大小異なる、思い出の詰まった玉が収められている様です。

下の方にある玉は基本取り出しづらく、しかし、大事な思い出は大きな玉になっています。

大事な思い出は大きいから下に沈んでもわりかし取り出しやすいけれど、小さい玉はもう下に行ったら取り出しづらくなります。

 

でもそこに颯爽と友達が現れて、勇猛果敢にもその容器の中に手を突っ込んで、下に沈んでしまった小さな玉を掴み取ってくれることもあります。

それを見て僕は「ああ、こんな思い出もあったんだなあ」と少しだけその存在を思い出すのです。

 

古い思い出は、大事なものもそうではないものも、取り出したり沈んだりするたびに擦れ合います。

擦れ合うから少しずつ小さくなっていきます。

確かに大切な思い出だったはずなんだけれど、それも少しずつ薄らいでいくように思います。

 

そして擦れ合うと、ときたま混ざり合うこともあります。

あの記憶は果たしてあの時のことだったかしら、それともこの時のことだったかしら?

混ざり合い、同じ思い出として捉えることもあるし、あるいは見分けが付かなくなることもある。

 

ジャラジャラと、ジャラジャラと、そんなイメージです。

 

……………

年を取ると時間の進みが早く感じます。

子供の頃は20分の休み時間に校庭に出て全力でサッカーボールを蹴ったものだけれど、今20分で何かをしろと言われたらなんにもできないように感じます。

小学生で1学年上がればそれだけでビッグイベントだけれど、大人になると気付いたらおっさんです。

 

どうしてそんな風に感じるのか。

いろいろ理由はあるんだろうけれども、僕は一つ「思い出不足」というものが関係しているのではないか、という風に思っています。

 

というのも、子供の頃はなんでも新鮮です。

新しい友達に、新しい知識、新しい環境。

毎日のように新しい発見があって、ワクワクして、楽しいことでいっぱいです。

昨日はこんなことがあったけれど、今日はこんなことがあった、じゃあ明日は何があるのかな。

そんな思いが毎日に活気をもたらしてくれていたのではなかろうか、などと思うのです。

 

でも大人になると、世界とはどうやらこんなもんである、新しい知識もなければ、新しい出会いというものもござらんて。

全てのことはどこかで体験したことがあるようで、刺激がなく、いつもどこか満たされない。

例えばそこまで無気力を感じていないとしても、新しい思い出が何か生まれているかといったら、多くの大人がそうではないと思うんですね。

似たような毎日が連続しているのだと思います。

 

子供の頃は、大きな思い出の玉が毎日のように積み重なっていたのに、大人になると小さな玉、しかも似たような味気のない玉が細々と積み重なっていくかのようです。

毎日が似てるので、同じ玉として溶け合っちゃう。

それをふとした時に振り返って見ると、あれ?何してたんだっけ?という風な印象を持ちます。

何してたんだっけ?という毎日がどれだけ積み重なろうとも、まるで世界で一番幸せだと思えたかけがえのないあの1日には到底敵わない。

 

……………

だから、思い出を作ろうと思います。

それによって古い思い出はまた取り出せなくなるのだろうけれど、やっぱり今は今が大事ですからね。

 

また本の話になっちゃいますが、友達にも会えない、どこにも出掛けられないのならば、本で空想世界にトリップするのは一つ思い出になっていいと思います。

物語ではなく、誰かのお話に耳を傾けるのも、有意義な時間の過ごし方と言えそうです。

 

あとはまあ僕の場合、こうしてブログを書くことが積み重なれば、振り返ったとき面白いのかな、なんて思ったりもします。

わりと思い付きで、雑だけれど、だからこそ率直的で、今この時の僕が出てて良さそうに思います。

これを例えば10年後とかに読み返したら面白そうです。

 

ので、明日も書こうと思います。

 

ノシ

 

おしまい