親として子供の為に準備するべきことだと思って
前回の話を読み返してみたらちょっとわかりづらかったかなと思ったので、少しだけ補足したいと思います。
僕がかねてより考えていたことは、僕のステータスが高ければ高いほどに、それは子供の基礎ステータスにも影響するのではないか、ということでした。
例えばゲームのように運動能力値があるとして、それが僕は5だったとしたら、その状態で授かる子供の値も5になるのではないか、と。
それが運動を全くしないで、例えばデブデブにデブってしまったとしたら、その値は限りなく0に近付き、子供の値もまた0に近付くのではないか、という懸念です。
でも反対に頑張って頑張って値が10になるのだとしたら、子供もまた10になるのかな、なんて考えたのでした。
頭の良し悪しもそうだし、音感的な面でもそうなのかなって。
だから僕が頑張れば頑張るほどに、その状態で授かる子供の能力値も高くなるのだろう、という風に考えていろいろやっていたこともあったのでした。
でもきっとそうはならないのでしょうね。
きっと持って生まれた遺伝子ってものがあって、それがまた子供にも影響するのでしょう。
僕が今頑張ったって子供の基礎能力値は変わらないのだと思います。
……………
ただ、環境を用意してあげることはできます。
僕の能力値がどれだけ高かろうとも子供の能力値に影響はない、としても、そうやって頑張った僕だからこそ見せられるお父さんとしての背中はあるであろう、と。
基礎能力値が仮に変わらないのだとしても、その後にある子供の成長幅は、僕が人間として凄い人であればあるほどに広がるのだと思います。
それに子育てという観点から子供の脳科学的な分野を学べば、自ずと自分の取るべき行動も見えてくると思います。
がむしゃらになんでもやってあげるのではなく、自分のやるべきことをできるだけ正確に把握して、できるだけ正しく接してあげることが望ましい。
そういう側面からの能力値向上も図りたい。
……………
更に加えて言うならば、僕は今、基本的に本を読んで学ぶようにしています。
そしてできるだけ本を買って、家に置いておくようにしておくことにしています。
それは自分がいつでも読んだ本を読み返せるようにするためっていうのもあるし、自分はこれだけ本を読んできたんだっていう自信にもなるっていうのもあるし、本の存在自体が知的欲求を刺激してくれるから、というような自分のためっていうのもあるんだけれども、それと同時にその環境が子供の為にもなるんじゃないかな、という風に期待してるのです。
本が当たり前のように家にあって、お父さん(できればお母さんも)が当たり前のように読書をしている。
その姿が子供にとっての「当たり前」になれば、読書に疑問は持たないと思います。
もちろん無理に読ませようと思ったら反発があるとは思いますが、そうはならないように自分がどんな風に働きかけをするべきか、というところも今後考えていくことになるでしょうね。
だから僕は、自分の為にも、そして子供の為にも図書室が欲しいのです。
そしてできるだけいろいろな種類の本を用意してあげたい。
難しいのも易しいのも。
図鑑も絵本も。
小説も学術書も。
僕は僕で学べて楽しいし、その結果生まれる環境が子供の為にもなる。
まさに一石二鳥とはこのことだな、なんて今思っています。
そんなのって
素敵やん?
おしまい