僕が「おかたづけ」でどうしても捨てられなかった物

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前回「おそうじしてる」と書いたわけですが、もうちょっと正確に言うと「おかたづけ」でした。

どっちでもいいと言えばどっちでもいいと思うんだけれど、なんだか「そうじにはまってる」という話題は滅茶苦茶家が汚くてその汚れを落としているんだ、というニュアンスになるような気がしたのです。

実際には「物が多過ぎるので片付け(整理し)ている」ということだったんだけれども、いやでもまあどっちも同じか。

 

幼少期の頃より物を捨てられない症候群だった僕は、今に至るまでにたくさんの物に溢れて過ごしてきました。

小さなおもちゃから大きなゾイドまで。

中学校のカバンだってあったし、小学生の時の鍵盤ハーモニカだってあった。

旅先で買ってもらったキーホルダーがごそっとあれば、誕生日に買ってもらったレゴだって埃を積もらせながら鎮座している。

あれもあれば、これもある。

 

しかし、その半分以上の物を今回捨てました。

これは僕にとって大事件です。

思い出ありがとうなのです。

 

しかし、裏を返せばその半分近くの物は、相も変わらず残されたということになります。

なんだよ全部捨てればいいものを半分も残すなんて結局お前はあれからなんにも成長しちゃあいないんだ恥を知れ恥を、なんて厳しい声が聞こえてきそうなものですが、いろいろ手に取るにあたって「いる」「いらない」の判断基準が僕の中にあったのでした。

本当は片付ける前は全部捨ててやろうかという気概を持っていたのですが、そうはならなかったのです。

半分近くは捨てられなかったのです。

 

じゃあどういう物が捨てられなかったのかというと、僕が手掛けた作品群でした。

例えば幼稚園児の時に書いた作文集だったり、父の似顔絵だったり、知育が目的に作らされた物だったりです。

そこに幼稚園児だった頃の僕の姿が確かにあり、一体どんな思いを抱いてこれを作ったのかと思うと、自分のことながら尊さを感じたのです。

もちろんその後の小学生時代然り、中学生時代も然りです(なお高校にほとんど思い出はない)。

 

貰った物でもなく、拾った物でもなく、僕がこの手で作った物。

思い出としての物ではなく、僕の確かな軌跡的な物。

そういう物はどうしても捨てられませんでした。

 

……………

僕は写真も好きですが、文章も好きです。

ブログは書いたり書かなかったりするけれど、プライベートで何か思い付いたらノートに文章を書いたりしています(だから常に持ち歩いています)。

どうして文章が好きなのかというと、今回捨てられなかった物と同じで、そこにその時の自分がいるような気がするからです。

そこに僕の思いがあるような気がするからです。

 

写真でも映像でも残されない僕の内面がここにある。

それが文章の醍醐味だと僕は思います。

 

だから、書いてる時も楽しいんだけれど、楽しく書いた文章を読む返すのも好きです。

反対に楽しんで書けなかった時の文章を読み返すのは大嫌いなので、無理に書かないようにしているというのが今のスタイルです。

 

そんなスタイルで今後も書いていこうと思います。

デジタルはかさばらなくていいですね。

 

おしまい