物を捨てられないっ子にとっての物と思い出

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「思い付いたら書く」

みたいなことを前回書いたような気がするのですが、「気がする」くらいの記憶しかないほどにもはや前回が遠い昔のように感じます。

 

いかがお過ごしでしたか。

僕は元気です。

 

ここ最近実ははまってることがありまして、それに熱中していたらこんなに時間が経っていました。

何にはまっていたのかというと、お掃除です。

 

そう、お掃除です。

 

というのも、家の掃除も然ることながら、実を言うと実家に大量の私物が置きっぱなしになっていたので、これをいよいよ片付けてやろうと思い立ったわけです。

どうしてそんな風に思ったのか、いろいろ理由はこじつけで挙げられるのですが、感覚的には自然発生的に思ったのでした。

誰かが掃除をしていただとか、お掃除の本を読んだとか、そういうことも特になく「そろそろ片付けるか」みたいな感覚になったのです。

強いて言うなら、本棚を欲していたので、その関係でインテリアの本を読んだりしたものだから、そこから沸々と「良い環境に身を置きたい」という感覚が研ぎ澄まされたのかもしれません。

でも「かもしれない」の域を出ない。

心って不思議ですね。

 

……………

そもそもとして、どうして実家に私物が置き去りにされていたのかというと、単純に物が多過ぎるのです。

多過ぎて、手を付けられていなかったのです。

 

じゃあどうして単純に物が多過ぎたのかというと、僕は物を捨てられないっ子だったからです。

物を買ったり貰ったりしたら、思い出としてとにかくなんでも取っておく。

どんなに増えても更に増やす。

いわゆる僕にとっての「おかたづけ」は、今ある物をいかようにして収納するかに終始し、「捨てる」という選択肢はほとんどなかったのです。

 

でもじゃあどうして僕は捨てられないっ子だったのでしょう。

確かに僕は何しろ写真も好きですから、根っからの思い出野郎という自覚は確かにあるけれど、それは果たして生まれ持った性質なのだろうか。

というと少し疑問があります。

 

というのも、僕は「物を大事にしろ」と教えられて育ったからです。

特に母が思い出母ちゃんだったので、その教えを受け継いだのが僕だと思うのです。

もちろん今となってはそれが生まれ付きなのか、母の教えによる賜物なのか、はっきりとした答えは出ないけれども、きっとそうなんじゃないかな、という気がしています。

 

しかし、その一方で「片付けなさい」ともやっぱり言われるわけです。

当時は特に疑問はなかったけれど、今にして思えば立派なジレンマです。

じゃあどれだけの思い出を大事にして、どれだけの思い出を捨て去れば良いのだろうか。

そんな教えは、思い出母ちゃんの教典にはなかったのです。

 

……………

確かに「物より思い出」と言われるように、物が全てではないことはわかっています。

物なんかなくたって大事な思い出はたくさんあります。

んだけれども、物があったらなお良いよね、と常々考えていました。

絶対に思い出しようのなかったことが、一つ思い出の品を目にしただけでいろいろなことがフラッシュバックする、なんて経験が誰にでも一度や二度と言わず、何度でもあると思います。

 

事実、今回片付けをするにあたって、僕が人生で初めてディズニーランドに連れて行ってもらったときの「レシート」が出てきたのですが、いろいろな思い出が蘇りました。

どこで何を食べたのか、何を買ったのか、その記録があるだけでより鮮明に「楽しかったな」としみじみ思えるわけです。

思い出だけで思いを馳せるには限界があると思うのです。

 

だから、物って凄い。

まるで思い出を物に詰め込んでいるかのようです。

 

それを捨て去るのはやっぱり忍びない。

その気持ちは今でもやっぱりあるのでした。

 

……………

でも人生には物理的にも精神的にもキャパってものがあるだろうから、今回いろいろな物を捨てました。

半分以上を捨てました。

人生で一番物を捨てました。

かつての「宝物」も捨てました。

これでもう思い出せなくなることもきっとあるだろうけれども、これから作る思い出を考えるとこれで良いのだと思います。

 

ありがとう、と伝えたい。

 

「物を大事にする」って意外と難しいんですね。

 

おしまい