僕がお父さんにしてほしかったこと

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僕の友達には子供がいます。

今は5歳とのことで、一緒にゲームしたりすることができる歳になったんだよねーと彼は話します。

それを聞いて僕は、かつて憧れた情景を思い浮かべました。

 

……………

僕はゲームが好きな子供でした。

我が家では「1日30分のプレイを3回まで」という条件付きでプレイすることができたのですが、それ以外の時間もゲームの攻略本を読んだり、自由帳にビデオゲームを模したシミュレーションゲームを友達と作って遊んだり、ゲームのキャラの絵を描いたり、ゲームの音楽を独学のピアノ(正確には母のエレクトーン)で弾いたりもしてました。

 

そんな僕の憧れた情景は、何を隠そう「お父さんやお母さんと一緒にゲームをすること」です。

一緒にコントローラーを握って、一緒に和気をあいあいとしながら笑顔いっぱいにゲームがしたかった。

しかし残念ながら父も母もゲームを一切しなかったので、この憧れの情景はついぞ達成されることはなく、僕もすっかり大人びてしまいました。

 

じゃあ父と母は僕に何をしてくれたのか。

父はほとんど単身赴任で、土日にしか家に帰ってこないような状態でした。

それで母は家のことで手一杯で、空いた少しの時間も読書をして過ごしていたように記憶しています。

 

でもだからか、父はそのなけなしの土日に僕達兄弟をよくどこかに連れて行ってくれました。

山だったり川だったり、海だったり森だったり。

それはつまりキャンプだったり釣りだったり、海水浴だったり虫捕りだったり。

いろいろな施設にも連れて行ってもらいました。

 

どこに行かないまでも、たまに「キャッチボールするか」と誘ってくれて、二人っきりでボールのやり取りをしたこともあります。

 

そう考えると思い出いっぱいです。

思い出いっぱいなんだけれども、冒頭の友達とのその会話で僕は気付いてしまったのです。

 

父は「僕のやりたいこと」を一緒にはやってくれなかったな

 

って。

 

……………

あれもしてくれたし、これもしてくれた。

あれも思い出だし、これも思い出だ。

だけれども、僕の、僕からの「一緒にこれやろうよ」を受け止めてもらったことはない(と思う)。

それは何もゲームに限った話ではなく、なんでもです。

 

父なりに、家にあまりいない分だけ子供達に何かしてあげようと一生懸命考えてくれたのだろうけれども、僕は僕のしたいことで一緒に遊んでくれるだけでも良かったのです。

「キャッチボールするか」ではなく「何してるの?一緒にやってもいい?」と声を掛けてくれるだけで良かったのです。

(もちろん母にしたってそうなんですが、母は家事・育児って意味ではほぼ一人でやってたようなものなので、そこまで求めるのは酷でしょう(その上パートもしてたし))

 

……………

そう考えると子供にとっての幸せって、親に何かをしてもらうことではなく、親に自分のことを理解してもらい、受け止めてもらうことなのではなかろうか、などと思うのです。

 

確かに子供の相手って大変です。

僕にも3歳の姪がいますが、たまに相手するだけでも大変だなと思います。

圧倒的な体力に、理解の追い付かない思考解釈で混乱をもたらし、心身ともに疲弊します。

人の親はこれが毎日毎時続くのか、って絶望します。

 

でもそれで子供は笑顔いっぱいなんですよね。

心の底からの楽しいって気持ちに笑顔が溢れて、それでも「もっともっと」とせがんでくる。

そんな姿を見て、「こんなに全力で遊んだことってもうずっとないよな」だなんて思ったりもするわけですが、その心を失わせてしまうのは忍びない。

楽しいって気持ちを大事にしてほしい。

大人の頑張りどころである、と僕は思います。

 

だから、もしも僕に今後子供ができるようなことがあったなら、ちゃんと受け止めてあげたいなーと思うのでした。

実体験を踏まえて、そう思うのでした。

 

だなんて言うと「そう言ってられるのも今の内だけだぞ」なんて言われそうですが(そして事実そうなんだろうけれど)、それでも理想は常に持っておきたいですからね。

こうしたい、というより、こうありたいっていう。

理想的な父でありたいなって気持ち。

 

でもその理想さえも自分の価値観によるところなんだから、気を付けないといけないですね。

 

子育てって難しい。

 

おしまい