子供の為に人間的スペックを高めたい

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僕は高校生のときから自分がお父さんになることを想像しながら生きてきた、ということは前回書きましたが、大きく分けて2つのことを考えてきました。

 

まず1つは、外的なものの良し悪しの判断です。

と言っても今はそんなに重きを置いていないのですが、例えばこの映画が良いだとか悪いだとか、このマンガが良いだとか悪いだとか、そういうようなことです。

今は「子供が自分で判断したらいい」と考えているので重要視してはいませんが、昔はよくこういうようなことを考えていました。

 

もう1つは、自分の能力を上げたら上げた分だけ子供の能力も上がるんじゃないか?ということです。

こっちは内的なものですね。

例えば運動能力を上げれば上げるほど、その状態で生まれる子供の運動神経もまた良い状態で生まれるのではないか、という発想です。

頭が良ければ良いほど、子供だって頭が良く生まれてくるんじゃないかな、なんて考えていたのです。

つまり、できるだけ自分が人間としての完成に近付けば近付くほど、それは子供のスペックに影響するのではないか、という風に考えていたのです。

 

……………

1つ目はまあ倫理的にどうかとか、道徳的にどうかとか、対象年齢的にどうかとか、そういうようなことはしっかりと考えて与えていくべきことでしょうが、基本的には子供の興味の赴くままに感性を豊かにしてほしいなーなんて思います。

2つ目に関しては我ながら面白い発想だなーとは思いますが、多分「遺伝子」って意味では後天的に伸ばすことはできないんだろうという風に、今は冷静に考えています。

 

でも2つ目は、意味がないとも思わないんですね。

運動ができれば、それだけ子供の遊びやスポーツに興じる時間を長く取ってあげることができるし、頭が良ければ、子供の能力がたとえ低かったとしても自分が教えてあげることができる場面が多くなります。

そういった意味では、自分自身のスペックが高ければ高いほど、それは子供にとっての良き父親になれる可能性が高くなると思うのです。

 

「どうせ自分が頑張っても変わらない」

なんて腐っていては、子供と遊ぶことはただただ疲れるだけだし、子供のわからないことは自分にもわからない、なんてことになってしまうような気がするのです。

僕はそうはなりたくないから、たとえ生まれてくる子供の基礎能力に変化はなかろうとも、自分自身のスペックは高くしておきたいな、なんて思います。

 

スペックを上げることの意義みたいな面では昔と考え方が変わったと思うけれど、目指すことは昔と変わらないと言えそうです。

 

……………

それで思い出しましたが、僕はよく父と虫捕りに行きました。

釣りにも行きました。

キャンプにも行きました。

そこではよく父の講義が始まりました。

 

虫を見付ければ「お、ミヤマクワガタだ」「アブラゼミだ」。

魚を釣れば「お、カサゴだ」「アイナメだ」。

キャンプに行けば太陽が東から昇ることを教わったし、とすると南はあっちだ、ということも教わりました。

時計の針を用いて方角を知る方法なんかも教わりました。

 

僕はそんな父に憧れました。

何も調べずにすぐに教えてくれる。

もちろん時には知らないこともあったけれど、どうしてこんなにいろいろ知ってるんだろうと子供ながら感じていました。

 

……………

今の時代、スマホを使えばどこでもなんでも調べられますが、それだけではダメだと思うのです。

親として、大人として、子供に知識だけ与えられればなんでもいいってことはないと思うのです。

直接に教えてあげる、考えてあげる。

その子供とのやり取りを通して育まれるものが、お互いにきっとある。

 

こうだから、ああなんだ。

ああだから、こうなんだ。

時にはわからないこともあるだろうから、そしたら一緒に調べてみようか。

 

できれば図鑑とかが望ましく、一緒にページをめくりたい。

ワクワクしてる笑顔を横から覗きたい。

子供の興味に付き合いたい。

 

好きなようにやってごらん。

危ないときは、父として、守ってあげるから。

 

大丈夫、その時のためのスペックだ。

 

というような発想です。

 

だから、僕自身まだまだいろいろ知りたいし、できるだけ間違いのないように子供を導いてあげられるよう、できる限りのことをしてあげたいのです。

 

何ができるのかな。

それもまた知識ですね。

 

おしまい