便利によって失われた良さがある(わび・さびの話)
確かに今の時代、便利に溢れています。
ボタン一つでお洗濯ができるし、なんなら乾燥機だってある。
スマホに数千数万もの音楽を入れることができるし、なんならサブスクで聴き放題。
エアコンのスイッチを入れれば、暑かろうが寒かろうが関係ない。
SNSがあれば、どんなに友達と離れていようとも情報を共有することができるし、なんなら一緒に遊ぶことだってできる。
映画を観たければ、レンタルしに出る必要もなく、かつ観放題。
旅行に行きたければ、歩けば何ヶ月も掛かっていた距離を、乗り物でサッと行ける
知識を得たければ、ほら、インターネットがすぐになんでも教えてくれるんだ。
挙げたら切りがないほどの便利に恩恵を受けている僕達は、まるで昔の偉い人達が奴隷を使ってやっと得ていた環境に生きていると言ってもいいと思います。
王様がいてね、何十人、何百人もの奴隷に様々なことをさせてやっと手に入れてた環境が、僕達には当たり前だとも言えると思うのです。
むしろ物によってはそれよりも快適です。
なんて素晴らしいことなんだ、と思います。
素晴らしいと思うと同時に、少し寂しくも思います。
どうしてかと言うと、その分「わび・さび」は失われたであろうと思うからです。
「わび・さび」
日本の美意識の1つ。貧粗・不足のなかに心の充足をみいだそうとする意識。閑寂ななかに、奥深いものや豊かなものがおのずと感じられる美しさをいう。
Wikipedhiaより
ここまで高尚なものを求めるつもりはないけれど、例えばお洗濯だとしたら、お洗濯物を懇切丁寧に手洗いすることによって注がれる愛情みたいなものもあったのかな、と思います。
愛情と言うか、愛着でしょうか。
洗濯機にポイッてして、ボタン一つでガシャガシャ洗うんじゃなくて、自分で手に取って真心を込めて洗う。
冬は水が冷たくてやってられないと思うけれど、そこに心に来る何かがあったのかもしれないなーなんて思うのです。
音楽も、CDをお店で手に取って、家に帰ってCDプレイヤーにセットして再生して、歌詞カードを見ながら聴くなんて、今の人達はまずしないと思います。
「ジャケ買い」なんてしないと思います。
「ジャケ買い」というのは、ジャケット、つまり歌詞カードなりなんなりの「絵」を見て良さ気だと思ったら、たとえその音楽(バンド)を知らずとも思い切って買ってみることを言います。
要するに、知らないのに「良さそう」だけでCDを買うっていう。
音楽が音楽単体で存在するのではなく、CDを伴ってそれが思い出になるあの感じ。
今にして思えばやっぱり面倒臭いけれど、一つの音楽体験だったことは間違いないでしょう。
映画も、映画館で観てこそその魅力は発揮されるのであって、やっぱり家で観るのではその魅力の全部は伝わらないと思います。
映像も音響も、そして空間による高揚感も、映画館に行ってお金を払ってポップコーン片手に添えて観なくっちゃ得られないものです(なおポップコーンは必須ではない)。
暑い日に窓全開にして、扇風機の前で「あ~っち~~~」なんて言う人はもうほとんどいないでしょう。
新幹線で一直線に目的地に向かわずに、鈍行列車で移り変わる景色をのんびりと眺める人もいないでしょう。
お手紙を書いてね、数日後に届いてね、更に数日後にお手紙が返ってくるような、そんな時間差を伴った、けれど愛情のこもった言葉のやり取りを経験してる人なんてほとんどいないでしょう。
そこにはやっぱり不便はいっぱいあったし、あっただろうし、大変だったし、大変だったろうから、「昔は良かった」「全部が良かった」なんて無責任なことを言うつもりは毛頭ないけれど、大変なりに生まれる良さって絶対あったよなって思うのです。
そこには「わび・さび」と言ってもいいようなものがあったと思うのです。
時間がゆっくり流れるからこその愛着だとか、もう手には入らない有形無形の物に対する懐かしいって気持ちだとか、みんなと常に繋がってるわけではないからこそのお祭りとかお正月の楽しみだとか、そういうものに思いを馳せる世界観はきっともう失われているのでしょうね。
繰り返しますが、今が悪いと言いたいわけではないのです。
快適で素晴らしい生活環境に生きられて、とりわけどうやら日本は安心安全らしいですから、そのこと自体に文句はない。
楽しいこともいっぱいあります。
けれども、失われた良さも確かにあったよな、ってやっぱり思う。
そう感じるとしたら、いよいよ僕もおっさんである。
まだまだ生きるのである。
元気である。
うん。
若いもんには負けんわい!(グキッ)
おしまい