アプリゲームは時間の無駄?
最近のアプリゲームって「体力」があると思います。
例えば体力が10あったとしたら、そこから行動できる回数は10回。
10回行動したらもう何もできなくなるんだけれども、時間が経つと体力が回復してまた行動できる、みたいな具合です。
この仕組みだと、効率的にゲームをやるためには、体力が満タンになったらすぐさま行動することが大事になってきます。
そうすることによって、体力を消耗した上でまた回復を重ねて、トータルで見たときより多くの行動ができるからです。
反対に、体力が満タンの状態で放置すると、せっかく回復できるだけの時間があるのに、満タンなことによってそれ以上体力を回復できなくなる。
それは「勿体無い」とされます。
だから、できる限り体力を減らして、常に「回復状態」にあることが望ましい、となるわけです。
なるほど、よくできた仕組みだな、と思うと同時に、僕はとても怖いシステムだなとも思います。
というのも、これじゃあ頭からそのゲームのことが離れないような気がするからです。
というか、僕も一時期アプリゲームにハマって、このシステムから抜け出せなくなった経験があります。
でも自発的に「ちょっとこれはまずいな」と思って、そのアプリを消したのでした。
さて、その「ちょっとまずいな」というのは、こんなことに時間を割いてる場合じゃない、という発想からです。
もっと僕にはやりたいことがあって、やるべきこともあるはずなのに、なんでこんなどうしようもないことに時間と意識を割いてるんだろう、と思ったわけです。
これがプレイステーションなんちゃらやらニンテンドーなんちゃらやらの据え置きゲームなら、そのゲームには「終わり」が来るわけですが、アプリゲームの怖いところはそれでいて「終わり」がないことだと思います。
終わりがないのに、ずっと意識を割く。
これはとても怖いことだなと思うのです。
………
しかし一方で、それって本当に悪いことなんだろうか?と思う自分もいます。
というのも、よく子育てなどの文脈で「好きなことをどんどんやろう」「好きなことが君にとっての才能だ」みたいな話があると思います。
ともすると、ゲームが好きな子はどんどんゲームをやれば、プロゲーマーにだってなれるのではないか、という発想ができると思います。
さかなクンさんはお魚が大好きで、ずっとお魚のことを考えていられる職業に就いたわけですが、その可能性がアプリゲームにもあるのかもしれないなー、と。
そうすることによって、自分もゲームを作ってみたい、なんて思うこともあるかもしれないし、そのアプリゲームの第一人者になれば何か有益な情報発信をすることができるかもしれない。
チェスが大好きでチェスをやり続けてチェスに生きた人もいるし、数学が大好きで数学をやり続けて数学に生きた人もいる。
音楽だったり、絵だったり、小説だったり、なんでもそういう人がいると思います。
じゃあやり続ければいいのか?
アプリゲームがどれだけ怖い状態にあろうとも、やり続けたならその先に何かが待っているのだろうか?
そんな風に考えていたら、何が正しいことなのかわからなくなってきます。
もちろん僕自身はそういう状態が理想だとは少しも思わないですから、もっと別のことに熱中したいと思うわけだけれども、誰かにとってはそれが幸せな姿なのかもしれない。
君が幸せならそれでいいのかもしれない。
好きにしたらいいのかもしれない。
………
とか言いつつ、でも本当にそれでいいのかな、とも思っちゃう。
各々が好きに生きたらいいとは思いつつも、でもだって、ともすると、人間はどこへ向かっているのでしょうか。
もし仮に何かの原因によって、自発的にではなく条件反射的に行動することが幸せだと言うのなら、お薬で頭フワフワさせちゃうことが幸せだとも言えるのでしょうか。
中毒的に求めるそれが、幸せをもたらしてくれるのでしょうか。
実際そういう風に考える人もいるのかもしれないけれど、僕はやっぱりそれが人の幸せだとは思えないのです。
何事も自分の意思で決定し、自発的に行動するからこその人間だと思うのです。
だから、半ば「やらされてる」状態のアプリゲームにはやっぱり疑問を感じる、というのが現状の僕の立ち位置です。
自分でたとえとしてさかなクンさんやら、チェスやら数学やら音楽やら絵やら小説やらと書きましたけれど、それらは本質的にアプリゲームとは違うのではないか、と思います。
少なくともそういう人達は、自分の意思でそれらに向かっていると思うからです。
でももしアプリゲームにもそういう領域があるのだとしたら、それはその人にとっての幸せなのかもしれません。
要はやっぱり自分次第。
難しい。
おしまい。