文章を書くってことの原体験

以前にも軽く触れましたが、僕の文章の原体験は小学3年生の時です。

とある先生が担任になった学年は、他クラスを巻き込んで全員日記を書かせられる(日記が宿題となる)という噂がまことしやかにささやかれながら開かれた担任の発表会。

全校生徒が集められた体育館で、各クラスの担任の先生が発表される中、僕は心底「うちには来るな、うちには来るな」と願っていました。

しかし僕の切なる願いは届かず、その先生は僕の学年に来た、どころか、僕のクラスの担任になってしまったのでした。

 

発表の瞬間、僕達は先生の目をはばからず、大声で「うわー!」と叫んで残念がったものでしたが、当の本人はニヤニヤしていたことを今でも鮮明に覚えています。

 

毎日宿題があるなんて絶望です。

ましてや日記なんて書いたことないし、日記って何を書けばいいの?と母に幾度となく問い掛けたような覚えがあります。

彼女は「その日あったことを書けばいい」と言っていました。

簡単に言ってくれるな。

 

でも宿題です、書かなければならない。

しぶしぶ書いて、提出する日が続きます。

 

すると日が経つに連れて、なんだか不思議と楽しく書いてる自分に気が付くのでした。

日記には先生からのコメントが毎日付くので、それが嬉しくて楽しかった、という面もあるにはあるのですが、それにしたって随分書く行為自体を楽しんでいたなーと振り返っています。

日記は、先生が作ったプリント用紙に設けられた枠内に右から左へ縦に書くのでしたが、僕はその枠内では書き切られずに、枠をはみ出して書くようになったのです。

枠をはみ出して左に伸ばし、左で行き止まったら今度は上へ。

上も行けなくなったら右端にワープさせて右上から下へ。

下へ行き着いたらまた左に行くのだけれど、つまりスタート地点に戻ってくるのでした。

 

その光景はあまり綺麗なものとは言えなかったですから、見かねた母は追加で文章枠を作ってくれたりもしました。

どんな風に追加したのかというと、日記枠と同じサイズに切った紙を上からセロハンテープでくっ付けてくれたのです。

そうやってめくって読めるようにしてくれたのでした。

多い時では5枚とか6枚くっ付けたように記憶しています。

 

それくらい僕は日記を楽しんだのでした。

先生がうちのクラスに来るってなった時は心底絶望したけれど、こうやって振り返ってみると先生が来なければ僕はこの大事な体験をしていない。

つまり自分の文章に対する興味に気が付かなかったかもしれない。

そしたら今文章を書こうという気持ちにもなっていなかったかもしれない。

先生には感謝しております。

 

でも僕は、次の学年で書かなくなったのでした。

先生も母も、僕自身でさえも、僕は書き続けるのだろうと思っていたのですが、意外にも書かなかった。

 

僕は結局のところ、連れてこられた遊び場で遊んでいたに過ぎないのかもしれません。

自ら遊び場へとは行かなかったのです。

 

でもそこに僕にとっての楽しい遊び場があることを知ることはできたので、少なくともそれは良かったことだと思います。

 

その遊び場はどこだっただろうか。

それがここ最近の模索に繋がるのかな。

 

見付かるのかな。

あるいはここなのかな。

 

変わったのは僕ってだけでね。

 

おしまい

堂々と巡るお気持ち表明

少し日が開いてしまいましたが、気を取り直して書きます。

どうもこんにちは。

 

ブログを書くモチベーションなるものについては、これまでもいくらか言及してきて、自分なりにも対策を考えてきたつもりでしたが、今日は改めて考えたことを書き綴ってみようと思います。

 

正直に言うと、ブログを書くのが辛いと思うことがありました。

最初は辛いという気持ちに気が付かず、これはただ内容を考えているだけだ、ここで頑張って考えて文章を書くからこそ脳は育つというものだろう、と思っていたのです。

 

ところが少し冷静になって、2日書かずに一人考えに耽ってみると、ああ僕は辛かったのか、と思ったのでした。

 

これは主観的なものなので共感を得られるかはわからないけれども、でも辛いことは頑張るべきじゃない、と僕は思うのです。

というのも、例えば子供に習い事をさせていて、その習い事が辛くて辛くてしょうがないと言っているならば、それは辞めさせるべきだ、というのが僕の立場です。

根性論で「甘ったれるな」なんて言ってみたところで、子供にとっては辛さが増すばかりでしょう。

 

なるほど、僕は一人頑張ろうとしてみたが、多分辛いんだ。

でも文章を書くことは好きなのです。

 

矛盾するようですが、要するに僕は「書きたいときに書く」のが好きなのでしょう。

つまりそれはとても趣味的発想です。

そこを無理に「毎日書くぞ!」とかってすると、習い事みたいになって辛い。

それはもう趣味ではなくなる。

 

しかしながら、あんた書きたいときに書くって言って全然書かなくなったじゃないか、と、いるかわからない僕のコアなファンなら思うと思いますが、全くその通りでございます。

そんな気持ちではやっぱり書かなくなる、世界は魅力で溢れているのだ(という言い訳)。

 

だから、書こうという意識は常に持とうと思います。

単なるお気持ち表明でしかないとは思いますが、書くため毎日文章について考えてはみる、がしかし無理はしない、書けないと思ったら書かない、というスタンスで行きたいと思います。

 

そうやって模索して、もっと自分を理解するつもりで、文章と、ブログと向き合ってみようと思います。

それでもダメだったらもうダメですね(何が

 

趣味ってなんだろう、どうあれば趣味と言えるだろう。

形式ばったものでやろうとしてるならば、それはやっぱり趣味ではないような気がする。

 

好きであればいい、その身を感情に任せてみたらいい。

多分そうすべきだったんだ。

 

というわけで、今日はこの辺で。

次はいつになるかな、どうなるかな。

 

乞うご期待、ですね。

 

おしまい

僕と二人で話しをしよう

友達と遊んできました。

彼とはもう長い付き合いになりますが、彼が近々遠くに旅立つことになったので、その前に遊んでおこうという運びでした。

 

彼とは他にも共通の友達がいます。

そんなみんなが集まって遊ぶことももちろんあるけれど、みんなでワイワイガヤガヤするときと、二人きりで遊ぶときのテンションというのはお互い違うものだなーと感じています。

恐らく誰でもでしょうか。

 

昔僕は、誰かと二人で遊ぶのが少し苦手でした。

端的に言えば、間が持たないのが気まずい、という気持ちがあったからなのですが、今はむしろ二人で遊びたいと思ってる自分がいます。

人って変わるもんだなーと思います。

 

どうして二人で遊びたくなったのかというと、年を召したからでしょうか、お話しを大事にしたいと思うようになったからです。

というのも、複数人で遊ぶとなかなかどうして、真面目な話というのができない。

誰かが誰かに茶々を入れたり、あるいは妙にボケてみたりと、あっちらこっちらしてしまう。

もちろんふざけ合ってる分にはそれがそれで楽しいこともあるけれど、せっかく誰かが真面目に相談事をしてるときとかに茶々を入れられると、僕はなんだか少し冷めた気持ちになる。

真面目なときには真面目に聞いてほしいなーと。

 

仮に真面目であったとしても、意見が飛び交うと話を遮られたりして伝えたいことが伝えられないこともあるし、そもそも複数人を前に深々と話すほどの度胸は僕にはないというのも大事な前提です。

どうしたってサラッとしてしまうのです。

 

だから僕と二人でいてほしいと思うのでした。

君の話しを聞かせてほしい、僕の話しも聞かせてあげよう。

そういう関係性を大事にしたくて、そしてそれをそれぞれで持っていたい。

 

だから、ワッと一回で集まるのではなく、コソッと集まるのを複数回したい。

それが今の僕のお気持ちです。

 

おしまい

時間をおみっちゃんに

今日は夜にお友達とご飯を食べに行く素敵な予定があるので、夕方のうちに日記を書いておこうと思います。

 

今日は僕はお休みでした。

お休みっていうのは長く時間が取られるものでして、誰もがそんな時間が続けばいいのになーなんて思うものかと思います。

 

しかしこれがまた過ごしてみるとあっという間で怖い。

休みなんてなかったんじゃないかとすら思う。

 

いやあったんだ。

それは間違いない。

 

休み、もとい時間というのはただあるだけであり、それをいかように使うかというのは各々の判断によるところでしょう。

そこにどれだけの思い出が詰まっているか、どれだけの思いを込められているかによって、その時間の流れというのは大きく感じ方が違ってくるのだと思います。

 

つまり今日僕は思いの詰まってない怠惰な一日を過ごした、ということをここで白状しますが、それはさておき、昔一日に映画を2本観たことがありました。

もっとたくさんの映画を平気で何本もいる人もきっとおられることでしょうが、僕は1日2本なんてまずもって観ない。

でもなんだかその日は2本観てみたんですね。

 

そのときどんなふうに感じたかというと、1本目に観た映画がずいぶん前の思い出のような気がしたのです。

それがつまりどんな風な作用が脳で起こっているのかとかそういう科学的な話は今できないんですが、恐らく2本目の映画が僕をその世界にいざなってくれたからなのではないか、と今急いで推察しています。

 

というのも、映画に限らず物語というのは、その物語上で長い年月を過ごしたりします。

それが映画だったら2時間程度で観れるわけであり、その物語上の長い年月を2時間程度で疑似体験できるとも言える。

 

そんなような感覚を得られるかどうかは人それぞれだとは思いますが、僕は恐らくそんなようなことで1本目が遠くに感じられたのではないのかなーなんて思っています。

 

さて、時間がそろそろあれなんで急ぎます。

 

怠惰であろうが、お密さんであろうが、過ごす時間の長さに違いはないでしょう。

でも脳が感じるその「時間的体験」というのは実際に異なるのだと思います。

だから、充実した休みを過ごしたなーという確かな満足を得たいのならば、そのあたりを念頭に少し工夫を凝らしてみるだけで簡単に実現できるかもしれない。

多分1日中本読んでるだけで、物凄い密な時間過ごせるのだと思います。

次の機会があったらやってみようと思います。

 

では行ってきます。

 

おしまい

やる気が起きないなら尻を蹴飛ばしてやればいい

人によって文章の書き方というのは違うと思いますが、僕の場合、気分に左右されることがほとんどです。

というのも、気分が乗ってまいりましたときは思うままに筆が走るものでしたが、気分が乗らないときは正直書いててつまらないし、読み返してもつまらない文章だなーとつくづく嫌な気持ちになります。

 

だから気分を乗せたい、そんな風にいつも思います。

 

良くないなーと思うのは、いつもパソコンの前に座って文章の内容を考えることにあります。

つまり「書こう」と思って書こうとしてる。

そうすると僕の頭の中はどんな風になるのかというと、ブログのことでいっぱいになってしまいます。

そうすると今度はどうなるかというと、ブログに関する話題しか思い浮かばなくなるのです。

そうやってひねり出されたネタが、今のこれです。

今日も「何を書こうか」と考えた結果、ブログのことをネタにしたブログを書くに至ってしまったのでした。

 

これはこれでありと言えるでしょうか。

まあ好きに書いたらよろしいのでしょうけれども、そう何べんもブログネタで引っ張れるとも思えない。

 

そもそも引っ張るという発想がよろしくない。

もっと自発的に、意識的に、書きたい気持ちで満ちみちて、気持ち良く書きたい。

 

だから考えたのです。

今日はそうしなかったけれど、考えたのです。

ブログを書く時間は「夜」という風に今決まってるんですけれども、その書く時間になったらまず書く気持ちになる努力をしよう、と。

 

努力っていうとまたお堅いイメージですけれど、先にも書いた通り、ブログを書こうと思って書こうとするとブログのことに支配されてしまいますから、もうちょっと楽にしたい。

例えば本棚のある部屋がうちにはありますから、そこで少し呆けてみる。

本を眺めてもよろし、読んでみてもよろし、雑誌を開いてもよろし。

ノートを読み返してもよろし、書いてもよろし、好きにしたらよろし。

そうしてリラックスしたくらいになったときに、なんとなく沸々っとした気持ちが芽生えるのではなかろうか、という風に思うのです。

 

昔いつだか公園に行ったとき、気持ちが落ち着いて、妙に文章が書きたくなったことがあったのですが、要するにそれを人工的に起こそうという魂胆です。

書きたい気持ちを演出する。

 

演出だなんて言うと、今度は「なにゆえそこまでしてそなたはブログを書こうと思うのだ」という疑問が浮かんでくると思います。

それがしとしても自分で考えてみたのですが、なんか「書いてみたい」と思うんですよね。

 

「書きたいか」っていうと確かに自分でもよくわからない。

でもただなんとなく、書いてみたいのです。

この気持ちに嘘はない。

 

きっと「書いてみたい」は意識的で、「気分が乗らない」というのが本能的なのでしょう。

その本能の尻を蹴飛ばしてやろう、と。

 

いや、そんなランボー的に乱暴的ではいけない。

そうではなく、手を差し伸べて腰を持ち上げさせたらいい。

 

おいでなさい、そして、ともに来なさい。

そういうようなお気持ちです。

 

そして二人の気持ちがかち合ったとき、最高に良い気持ちで文章が書けるのだろうと推察されます。

それを自分で演出ができるのならば、ぜひそうしてみよう。

 

きっとネタがあるかどうかじゃない。

気持ちの問題なんだ。

 

ともすると、他のことも同様のケースがあるでしょうか。

きっとあるのでしょうね。

 

いかに自分を騙せるか。

否、奮い立たせられるか。

それを極めたら人生はいくばくか好転するかもわかりませんね。

 

さて、気分が乗って止まらないので、今日はこの辺で。

 

ではでは。

 

おしまい

尻を叩いて赤くあれ、腰が浮くぞ

ここんところ、ライブハウスにお世話になっています。

いわゆるバンド活動をしていたのはもう10年近く前のことですから、ここんところのお話は大人の戯れとでも言いましょうか、完全なる趣味の話になります。

 

でも大人になって思うのは、どうにもバンドメンバーとの都合が合わないなーということです。

当時一緒にやっていた彼等彼女等とまたバンドをやりたい、ライブをしたいと思い、この機会に改めて声を掛けてみたりもしたのですが、やっぱりそれぞれ家庭を持っていたりなんだりでどうにも都合が合わない。

都合というか、もうみんな楽器自体をやっていなかったりするので、そうなると改めて練習の時間を取りたいわけだけれど、その練習の時間もない、というわけです。

 

じゃあ誰か他の暇な人を探そうか、場合によっては新たに誰かに楽器でも始めてもらおうか、なんて思ったりもしますが、誰も彼もがそんな時間はない。

 

かと言って、今更知らない人と連絡を新たに取って「やりまっせ」なんてことまでしてやるほどの熱量もない。

ゆるーく戯れたいものだから、気心知れた彼等とまたやりたいとやっぱり思うのでした。

 

でももしかしたら新たな出会いに、素敵な出会いが待ってるかもしれない。

その可能性があることは重々承知しているつもりだけれど、フットワークはどうしても重たくなるものだなーと、大人になった今思います。

 

高校生のときって、物凄く人見知りだった僕ですけれど、どうしてもバンドというものがやってみたくて、知らない人にメールを送ってまでバンドメンバーを探したものです。

でも結局人見知りは人見知りとしてあるのだから、メンバーでせっかく集まってもろくに会話もできなくて、そのバンドはほどなくして自然消滅したりもしました。

それでもめげずにメンバーを集めようと奮闘した僕は、我ながらなんて偉いなーと思います。

 

それが今となってはどうですか。

腰が重たくて重たくてしょうがない。

できれば日常は変えたくないと思ってる自分がいます。

その癖なんかないかな、とどこかで思っている。

 

これでは良くないなーと思うわけです。

そう思ってのブログ書きでもあります。

 

重たい重たいなんて言ってる場合じゃない。

尻を叩くのである。

叩いて叩いてお尻が真っ赤になって、痛くって腰を下ろせなくって、常に腰が浮いた状態でいるくらいが僕には丁度良い。

 

でも疲れたら時には腰を下ろしたいのだから、やっぱり良い塩梅が良い。

何事も求められるのは中庸ですね。

 

おしまい

興味に点火を、ファイアー!(ボボボボボボボ)

すっかりブログを書かなくなりまして、いくばくかの月日が流れましたが、僕のことを覚えておいででしょうか。

 

僕の当時の計画としては、毎日ブログを書く時間を設けるとやりたいことをする時間がなくなるから少し削ろう、そしてブログを書きたい気持ちがふつふつと沸いてきたら書こう、なんてのんきに思っていました。

ところが、そんなお湯は沸かなかったのが正直なところです。

 

人によって蓄えられた興味のお水は違いましょう。

その量も、あるいはその質も。

まるで日光によって沸き上がるように、生きているだけで自ずと興味が湧く人もおられましょう。

そしてそういうものがあれば、それに従って生きていれば良いもののように思われます。

 

しかしながら、そういうものがない人もいると思います。

僕なんかはその通りで、自分でコンロに火を掛けなければその水はなかなかどうして沸かない。

 

「ブログを書く」というその意識はまさにコンロであり、僕にはそれが必要だった。

 

振り返ってみると、小学生の時に「日記」という宿題を課せられたことがありました。

はじめこそはいやいや書いていたけれど、書けば書くほど面白くなってきて、いつの間にか日記を書くことが大好きになった、という経験があります。

しかしその日記という「宿題」がなくなると、あんなに楽しく書いていたのに僕は日記をちょっとも書かなくなってしまったのです。

好きなはずなのだから、宿題としては終わっても自ずと日記を書くと思われたはずが、そうはならなかった。

 

所詮、僕にとっての興味はその程度、と言えそうです。

わりとなんでもそうで。

 

ただ、その分キャパに余裕があるので、幅は広いという特性を持っています。

あっちらこっちらどっちらしてしまうのがたまに傷とも言えるけれど、長所は短所と言いましょうか、いや、短所は長所とも言えるわけで、要するにどっちでもいいんですか?(聞いた

 

何が言いたいかと言いますと、ブログを書きたい気持ちは根底にあるのだから、その鍋に火を点けることにしたい。

その為にはやはり「毎日書く」という条件付けは僕には必要のように思われました。

 

この塩梅は実に難しく思われます。

その条件が枷になりはしないか。

あるいはなるが、しかしそれだからこそ成長できるというものだろう、とも自分で言っていたような気がします。

 

それもまたその通りで、頑張ってみる価値はある。

ならばもう一回頑張ってみようと思い、筆を執ったのでした。

 

ところで、言い切り口調が一転、ですます調になってることにお気付きの方もおられると思いますが、気分です。

一旦戻してみて、それでしっくり来るならあとまたずっと丁寧にお話ししていきます。

今後とも何卒、宜しくお願い致しますおさん(テキトー)。

 

おしまい