時間配分の良いバランスを求める人生は果たして幸福と言えるのか云々
夜に日記を書くようになって、時間を十分に取れることは良いことなのだけれど、今度は自分のやりたいことができなくなってしまった。
時間は有限である。
選ばなければならない。
仕事が終わってご飯を食べて日記を書く。
1時間とか2時間掛けちゃう。
そうすると、もう結構お風呂に入って寝るような時間になってくる。
これでは本も読めないし、ギターも弾けない。
これはこれで良くないような気がする。
あちらを立てればこちらが立たずの中、さて、僕は一体何をしていけばいいのだろうか。
そんなことに思い悩むのであった。
多分「書くか」「書かないか」という2択で考えるのが良くないのだろう。
前にも書いたが何日か置きに書くのだって悪くはない。
例えば時間のある休みの日にだけ書くとか、それでもいいような気がする。
僕はもっと博識になりたいし、音楽的に優れた人になりたいのである。
とにかく今のバランスだと逆に窮屈に感じるのだから、もう少しそのあたり自分の人生なのだから良いバランスを考えてみようと思う。
そして探っていこうと思う。
ということは明日は書かないかもしれない。
書きたくなったら書くかもしれない。
そういう自分の気持ちに正直になることもまた大事なことだろう。
丁度そういうようなことを昨日書いたばかりだしね。
今やりたいこと。
それをしっかり見つめてみよう。
ちなみに今はミヒャエル・エンデの『モモ』を読んでいる。
期せずして「時間」が大きなテーマとなっている物語である。
これを読んで、時間について深堀してみようと思う。
あー顎が痛い。
おしまい
パン屋でコーヒーとおばあさんに
僕がよく行くパン屋さんは、ある一定の金額を超えた分のパンを買うと、サービスでスープかコーヒーを提供してくれる。
基本的に僕はコーヒーを頂く、というか絶対にコーヒーを選んでいるが、スープだってもちろん捨て難い。
仮にコーヒーがなかったとして、スープをもらうこともやぶさかではない、というかそれもまた嬉しいことである。
どちらも良い。
ところが、今日もいつもと同じようなパンをいつもと同じように買いに行くと、一人のおばあさんを見かけた。
おばあさんは僕の後ろに並んだ。
僕がいつものようにサービスのコーヒーカップを受け取り、コーヒーメーカーにカップをぶち込み、コーヒーをゴリゴリジョボジョボ淹れくさっていると、おばあさんと店員さんのやり取りが聞こえてきた。
「サービスでコーヒーかスープがございますがいかがなさいますか?」
するとおばあさんはこう答えた。
「結構です」
結構なのか、と思った。
僕はどちらだって欲しいと思うのだから、そのどちらのサービスも受けないという選択肢があるとは発想もしなかった。
なにもサービスを受けない必要はないだろう、と。
せっかくもらえるのだからもらっておけばいいのに、と思った。
しかし恐らくおばあさんにとって「もらわない」という選択が最善だったのだと思う。
コーヒーもスープもいらない。
いらないものはいらない。
くれるならもらう、とはならない。
いらないからいらない、のである。
果たして同じ立場だとして、僕はおばあさんと同じ選択をするだろうか。
仮にいらなくたって、せっかくだからともらってしまう気がする。
それは自分の気持ちに素直だと言えるだろうか。
サービスに限らず、僕は別にコーヒーを飲みたいと思わなくても、なんとなく飲んでしまうことがよくある。
「飲みたい」という気持ちはないのに飲んでしまう。
それはつまり本当は「飲みたい」のだろうか。
こうしたい、という気持ちは、どちらが自分の本当の気持ちだろうか。
飲みたいし、飲みたくない。
相反する気持ちは共存しているような気がする。
しかし実際に飲んでしまうというのなら、気持ち的には「飲みたい」に軍配が上がり、それが本能的な欲求ということなのだろうか。
不思議なのは、気持ちとしては「飲みたくない」という気持ちの方が、意識的にはっきりと立ち現れている気がするということである。
だのに飲んでしまう。
それってつまりただの依存だろうか。
あるいはそうかもしれない。
だとしたらこの議論は意味をなさない気がするが、仮に違うとしたら、気を取り直して、おばあさんのように自覚のある気持ちに従うように生きたいものだと思った。
いや、もちろんおばあさんは単にコーヒーもスープも好きではなく、なんなら嫌いという可能性も否定はできないが、今は実際のところがどうかなんてどうでもいい。
ただ僕は彼女と店員さんのやり取りを見て、勝手に思いを馳せたというだけである。
それで僕の人生が少しでも好転するのなら、それでよいのである。
あとのところは自分次第。
生かせるように生きたい。
おしまい
そんな罪な存在に
少し調子に乗って、誰かの為にということを考え過ぎたかもしれない。
その瞬間自分を見失うような気がする。
恐らく多分、しかしきっと、僕はその土俵にない。
自分という芯を持たず、信念という意味で「信」と言ってもいい、精神力という意味で「神」と言ってもいい、そういうようなものがないうちに周りのことばかりを気にし過ぎると、いつまで経っても信とか神の芯は太くならない。
仮に自ずと他人様に影響を及ぼすようなことがある場合、それはその太さがどんどんと太くなっていって、いつの間にか他人様の影響領域にうっかり立ち入ってしまったときに生じるものだと思う。
まるで木のように。
大木のように。
木は基本的に上に伸びる。
枝もちょいちょい横に生えるが、基本的には上に伸び、その太さは中心から外に向けて広がっていく。
それがいわゆる年輪である。
そんなようなもので、僕は年輪を重ねなければならない。
年輪を重ねず、枝ばっかり伸ばしてる場合じゃない。
枝を伸ばして他人様にちょっかいを出そうとしている。
そんなぺらっぺらな棒なんかじゃあせいぜいつつく程度しかできない。
年輪を重ねてぶっとくなって、それはまるでご神木のようになって、じわりじわりと侵食したい。
生きていればどうしたって誰かに影響を及ぼしてしまうような、そんな罪な存在。
とりわけ三兄弟の末っ子として育った僕は、人の顔色を窺いがちである。
もっともっと自分として生きていたいなーと思う。
そういう練習があるいは必要なのかもしれない。
おしまい
人は今日もカラフルに、うねりを見せる
朝と夜とでこんなにも書き方の違いが出るとは、自分でも驚いている。
朝と夜とではまるで別人である、というようなことを外山滋比古さんが『思考の整理学』という本で言っていたような気がしたりしなかったりするが、僕もそんな気がする。
朝というのは元気溌剌である。
場合によっては眠たい目を擦りながらにゃむにゃむ書くこともあったが、基本的には脳というのはすっきり爽快となっている。
夜になると脳は疲れている。
とりわけ僕みたいにあれこれ面倒臭いことを堂々巡り状に考えてしまう人なんかは特に疲れている(のかもしれない)。
それでは別人のようになっても致し方ない。
しかしどちらが本当の自分であるか。
そんなことを考えてみる。
多分、どっちも自分である。
そんなことは当たり前である。
昨日も「人は基本的にダブルスタンダードである」というようなことを書いたが、それと被る話になる。
人はいくつかのペルソナを持っている。
人は「カラフル」である。
決まった形はなく、まるでアメーバ状にうねうねしている。
多くの人はうねっている。
だから芯のある人に憧れを抱くのだろうか。
自分もああなりたい、そんな風に思わせられる。
でもうねったっていいんだ、というようなことを言ってくれるのが『カラフル』という小説なんだと思う。
いや、実は小説は読んだことがないのでわからないが、アニメ映画を観た限りそんなようなメッセージ性だったように記憶している。
人は変わるし、変わって当然だし、変わったっていいんだ。
君はどんな色を見せるんだい?
そんな話だったと思う。
決まった色はない。
ならば好きな色に染まれる。
決まった形はない。
ならば好きな形になれる。
けれども、その形状を維持することは難しい。
きっと型がないからだ。
疲れたら、少し崩れてもいい。
でも思い出したら、もう一回形を成してもいい。
僕達は自由だから。
おしまい
言葉は素敵なことだと思う
少し思い違いをしていたかもしれないかもしれなくもないのかもしれなくない(どっち)。
僕は日記を書くわけだが、昨日買った日記用のノートに記した言葉というのは、とても日記的ではなかった。
どちらかというと哲学的な様相が呈されていて、それを書こうと思いこうしてブログの記事編集画面を前にすると、途端に腰が重たくなるのだった。
どうして重たくなるのかというと、哲学的様相を呈した重たい内容は、実に正確性が求められる。
本当かいな、と。
矛盾してるのではないか、と。
そんなようなツッコミが来ないよう練りに練って、ねるねるねるねしなくてはならない。
だけれども、ねるねるねってる時間は1日だけでは足らない。
というか、僕みたいな一般人が一生懸命考えたところで到底辿り着かないようなテーマを不用意に選んでいるかもしれない。
考えれば考えるほど、書けば書くほど、お尻が遠くに見えるのであった。
そんなような内容を毎日のように取り扱っていたら、日記なんてものは一生書けない。
だからお少しお尻のお肉をお削ぎ、お腰をお軽くしたい。
日記は思い付きでなければならない。
そんな風に思った。
今書きたいことを書くべきである。
そんな風に思った。
と言ってもこんなのは日記とは言えないかもしれない。
日記と言えば今日あった出来事を書くものという定義がありそうなものだが、僕のこれは今日の出来事が何一つ書かれてはいない。
いや、ノートに書き記したことは重たくて書けなかった、というのは今日の出来事であったか。
まあそういう定義の話は置いといて、僕としてはその日に思ったこと、考えたことを記す、という意味で日記ということにしたい。
なんだか前にも同じようなことを書いてるような気がするけれど、都度都度軌道修正するためにも確認していきたい。
ところで、にんげんだもの、僕も過去の記事と最近の記事で矛盾したことを書いてる可能性がある。
無論矛盾のないように生きたいし、そういう考えのもと物事を書いてるつもりではあるが、ややもすると矛盾が生じてる場面というのはあるかもしれない。
言い訳にはなるが、つまり人間なんてそんなもんだ、と思う。
どれだけ一貫性を持つよう意識したって、どこかに矛盾は生じるものだと思うし、ダブルスタンダードになりがちなんだと思う。
ある場面においてはAという立場だけれども、違う場面においてはBという立場を取ることもあると思う。
そういうのはあまり良くはないと思うわけだが、繰り返すが、人間はとかくそのようになりがちである。
僕も例外ではない。
でも一貫した、芯のある人間になりたいなーなどと思う今日この頃。
ブログは過去の自分を知れるという意味でも実に面白い。
内面が記されたものが置かれているその様子はロマンすらある。
言葉を時を超える。
何千年も前の人間の言葉も残っている。
僕なんかの言葉がいつまで残るかはわからないが、日記を書く理由にはそういう側面もある。
誰かの心に残るなんてこともあるかもしれない。
素敵なことだと思う。
いろいろ書いていきたいなーと思う。
おしまい
朝に書いてた日記を夜に書いてみたらば
「やりたいこと」というのは大きく分けて2つあると思う。
1つは、純粋にやりたいこと。
誰に言われずともそれをついついやってしまう、というようなこと。
自然と手に取ってやってしまうこと。
どんなにしんどい日常でもこれだけは欠かせない、というようなこと。
などなどなどといろいろ言い方はあると思うが、いわゆるこれは「好きなこと」ってことになるんだと思う。
そしてもう1つは、好きではないが興味はあり、なんだか挑戦してみたいこと、となるだろうか。
例えば、ギターをやってみたい。
ギターが好きとかってことでもないんだけれども、弾けたらいいなーと思うからやってみたい(=やりたいこと)、となる。
例えば、ダイエットしたい。
だから筋トレをしたい。
これも言い換えると、筋トレが「やりたいこと」になる。
2つのやりたいことの内、前者は意志力のいらないことだと思う。
「よし、やるぞ!」なんていう気合は不要で、意識せずともいつの間にかやっているようなことになる。
後者は意志力がいることだと思う。
「よし、やるぞ!」なんていう気合が必要で、意識して自覚的にやるようなことになる。
僕にとっての日記ブログというのは、どちらかというと後者寄りになる。
自然と筆を握ってしまうほどに書きたい衝動には残念ながら駆られない、がしかし、後者における「やりたいこと」ではある。
僕は日記を書きたいんだ。
もちろん「やりたいこと」というのは、単純な二者ではない。
実際にはコントラストがあり、大好きなことから、ちょっと好きなこと、あんまり好きではないことだったり、全然好きではないことだってあるだろう。
その中に、思わずやってしまうことから、たまにやること、あんまりやらないことだったり、全然やりたくないこともある。
そしてそれは「大好き」だけど「やりたくない」こともあると思う。
それで言うと、先に「どちらかというと後者寄り」と書いたが、僕にとっての日記は、好き、であるが、ちょっとした辛いこと、となるだろうか。
というのも、文章を書くという行為自体は好きなのだが、それをわざわざこうやって人様に読まれるような場で文章を書くということはストレスが掛かり、ちょっとしたトレーニングになるのである。
それはだから少し辛い。
だけれども、辛いからこそ意味がある。
要するに僕はブログを筋トレならぬ脳トレのつもりで書いているのである、というのは前にも書いたとおりである。
でもこれくらいの感覚だと、僕はこれを三日坊主にしかねない。
いや、誰でもだろうか。
とりわけ今の時代は興味の対象が多過ぎるのだから、誰にとっても後者的なやりたいこと、挑戦したいことと言ってもいい、そういうものに取り組む意志力は残されないのではないか、という気がしている。
残るのは結局、前者的なやりたいことであり、それがない人にとってはダラダラとした人生が待っている、のかもしれない。
かく言う僕も強烈な前者的なものはない。
なんとなく好きなものにあっちゃこっちゃ手を出しているのが現状である。
もちろんそれはそれで楽しいが、しかしその手の出し方はどうしても楽なものが優先されがちだ。
つまり、トレーニングなんていう辛いことはどうしても後回しになりがちになり、結果、三日坊主となる。
これではいけない。
だから僕は条件付けをしたんだ。
朝起きたらブログを書く、って。
この「条件付け」というのは、何かを習慣化したいときに効果的なのでぜひ試してみてほしい。
でも朝は時間が無さ過ぎてトレーニングにならない、というのがここ最近の悩みだったのは周知のことだと思う。
それで今、夜の9時になる頃に書いている。
すこぶるトレーニング的である。
多分もう1時間くらい書いてると思う。
そう考えると、やっぱり時間を取ることは大事だな、と思う。
つまり、これでいいんだと思う。
後は三日坊主になりはしないか。
さっき新しく日記用にノートを買ってきて、何か思い付いたら書くようにするつもりなので、多分大丈夫、だと思う。
ちなみに今日の内容も、大筋は日中ノートに書きながら考えた。
それでもまさかこんなに時間が掛かるとは。
でもその分トレーニングになってるのかな。
ならば良しとしよう。
しかし今はただ、もっと文章が上手になりたいという思いでいっぱいである。
これが後者的なやりたいこととなる。
続くかどうか、どうか見届けてほしいと思う。
いつもありがとうございます。
頑張ります。
おしまい
日記ブログの方向性について少し考える
苦しみが人を成長させるというのなら、苦しみは苦しみとして苦しまなければならないのか。
というのも、苦しみを「こんなのへっちゃらだい!」と笑い飛ばすことよりも、「なんでこんなに苦しいの?」「どうして自分だけこんな目に遭わなければならないの?」と嘆き苦しんだ方がよいのだろうか。
事象に対し、捉え方が違えば、受ける影響も違う。
僕等はどう受け止めればいいのだろうか。
恐らく良い塩梅というのがあるのだろうが、今は時間が足らないので深堀できない。
そこで思うのは、やっぱりどうしても朝に時間を取ることはできそうにない、ということである。
サクサクッと日記(的なもの)を書くことはできるが、当初の目的であった「考えること」は十分にできているような気がしない。
もちろん日常の中で頭で考えて、次の日の朝にそれを書き綴るということもできるかもしれない。
でも日々の生活にはまた別の考えることがあるのであって、その一つのことに集中している暇はない。
考えて、書いて、考えて、書くという時間を設けたい。
朝にこだわらず夜に書くか。
あるいは朝に書くスタイルを積み重ねて、例えば3日に一つの記事を書きあげるとか。
週刊スタイルでも悪くはない。
どうしようかな。
そんなことを考えながら今日を過ごす。
ほら、また浅い。
おしまい