全ての行いは意味があるとも言えるし、あるいはないとも言える

年始からゲームなんかをしていて思うのは、「こんなこと意味あるのか」ということだろうか。

確かに楽しいが、意味はないのだろう、と。

 

しかしながら、その行為に意味があるかどうかは長い目で見るとわからない。

あるのは意味があるであろうことが容易に想像が付くものと、意味があることが見えづらいことだけだろう。

 

ゲームだったら、その物語に何か感銘を受けることがあるかもしれない。

それで人生観が変わるかもしれない。

そのゲームの話題で誰かと盛り上がるかもしれない。

それで仲良くなったり、お近付きになったりするかもしれない。

そのゲームを知ってるからこそ、別のゲームでオマージュに気付けるかもしれない。

他の人には楽しめなかったことが楽しめるかもしれない。

そのゲームの操作が上手になったからこそ、何かの操作も上手にできるかもしれない。

副次的な効果が期待できるかもしれない。

わからないけれども、何かに繋がる可能性はいくらでもある。

 

反対に、読書には絶対的な意味がある、と言ってみよう。

だけれども、例えば小説を沢山読もうが、その内容を頭に入れなければ意味がないし、物語に思いを馳せて、あるいは考えを深堀する時間を設けなければ、恐らくその小説は意味を持たない。

100冊読んだとして、それでじゃあどの小説が面白かったですか?という質問には答えられたとしても、じゃあその小説がどのように面白かったのですか?という質問に答えられないとしたら読んでないのとほとんど一緒である。

面白かったことは覚えてるんだけど内容はどんなだったっけ?となってしまってはそれこそ意味がない。

 

小説に限らない。

何か知識を得ることのできる本を読んだとしても、そしてその知識を頭で理解していたとしても、生活に役立てたり、その知識を持って論じることができなければ持ち腐れだろう。

つまり、その知識に意味を持たせるのは自分次第だ。

 

ともすると、絶対的に意味のあることもないし、絶対的に意味のないこともない。

僕にはまだ5歳の姪がいるが、一緒に遊んでいるとふととてつもなくつまらなく感じる瞬間がある。

5才児の考える遊びに面白さを見出せないことがあるのである。

だけれども、それを理解しようとすると、なるほど、こういう発想なのかな?ということが見えてきたり、その遊びに慣れることによってまた別の子供と遊ぶときにスムーズに介入することができるようになる。

実際、友達の子供(3才)と初対面で打ち解けることができたのだが、それを見て友達は大変驚いていた。

言い換えれば、子供との接し方が上手になったのである。

 

スティーブ・ジョブズも確か言っていたね。

「どこかで作った点がいつか線になる。沢山点を作っておこう」的なことを。

 

じゃあどんな点を作ればいいかというのは誰にもわからない。

もちろん「将来の夢」なるものがはっきりとしているのならば、それに関係することを沢山するのがいいだろうが、それに関係しなさそうなものが本当に関係しないかはやっぱりわからない。

音楽が大好きな人にとって本は意味がないかと言ったらそんなことはない。

本が大好きな人にとって音楽は意味がないかと言ったらそんなことはない。

釣りをしていてふと何かを感じることもあるだろうし、スポーツが影響することもあるかもしれない。

何がどれにどう影響するかなんてわからないのだから、だからなんでも作っておこうぜ、というのがジョブズの主張だろう。

 

その中で確かに死ぬまで意味を成さないこともあるかもしれない。

でもそんなことを気にしていたら何もできなくなってしまう。

好きなこと、あるいは興味のあることならどんどんやってみるといい。

嫌いなことだって、嫌いだからこそ興味があるならやってみるといい。

行い全て自分の糧にすることができたなら、それはきっとユニークである。

僕はユニークになりたいのだから、ゲームだってしたいし、映画だって観たいし、小説だって読みたいし、古典だって読みたいし、音楽だって聴きたいし、楽器だって弾きたいし、日記だって書きたい。

 

どんどんやっていこうと思う。

今論じてきたとおり、それらがいつか線になるかもしれないし、ならないかもしれないんだが、それは要するに副産物があるかどうかの話でしかない、とも言える。

大事なことは興味に飛び込めるかどうかだろう。

 

それでひとまず生きていて楽しめると思う。

それが何かになったらなお嬉しいな、という話。

 

さて、『ペンギン・ハイウェイ』でも読むか。

 

おしまい