100点を追い求めて
日記へのこだわりは、恐らく他人から見たら意味のわからないものに感じると思う。
僕の中だけにあるこのこだわりは単なる性格によるものであり、場合によっては何かしらの精神的な障害みたいなものを疑う人もいるかもしれないほどのこだわりを感じているかもしれないが、実際もしかしたらそうかもしれない。
僕は何かしらの病気なのかもしれない。
こうと思ったらこうあるべきなのではないか、という考え方は昔から変わらない。
昔の方が酷く、大人になるに連れて世の中を知り、色々な考え方があるのだと知ってからは随分変わったようには思うが、まだまだ自分でも「変だな」と思うタイミングは少なくない。
まだ「変だな」という自覚がある分、たちは悪くはないのだろうが。
と言っても、こだわりを持つことが必ずしも悪いとは思わない。
もちろんそのこだわりがあらぬ方向に行ってしまっては、沢山の人にご迷惑をおかけすることになるかもしれないのだから、それだけは頑張って気を付けなければならない。
でもそうではない場合、誰かを巻き込むようなものではない場合、むしろこだわって然るべきという場合もあるだろう。
例えば仕事。
僕の仕事は技術を要する内容もある。
技術は磨けば磨くほど上達するものであり、上達すればするほど綺麗な仕上がりになる。
人によっては「こんなもんでいいだろ」と投げ出すようなことも僕はこだわりたい。
出来ることなら100点を取りたい、そういう気持ちでいつも取り掛かる。
だけれども100点は中々取れないんだ。
もちろんそれは自分の中の採点基準なので、他人から見たらもうすでに100点なのかもしれない。
でもプロ中のプロが見たら赤点かもしれないね。
僕の中ではいつも70点とか80点に感じることが多い。
それがいつもモヤモヤする。
ここはもっと綺麗になる、ここももっと上手にやれる、そういう部分が見える。
面白いのは、仮にそういう部分を直せるようになったとしても、今度は別の部分が気になってくるのだから100点は実に遠い。
今ある基準による70点80点は、上達した頃に見た基準からは50点60点になりかねない。
要するに、技術によって見える部分が違えば100点の形も自ずと変わるだろう、と。
小学生のテストの100点と中学生のテストの100点と高校生のテストの100点ではその意味が違うように。
だから僕に100点を取ることはできないのかもしれない。
レベルが上がるに連れて、100点の基準も上がるのならば。
でもそれを追い求めることに意味があると僕は感じている。
取れないことを悟り、腐ってみるのではなく、取れないことを受け入れながらもそれを追い求めるんだ。
そのこだわりが僕の限界へと導いてくれる。
実はそうやって日本一になったものもある。
そういうこだわりは持ち続けたい。
おしまい