勉強嫌いだった僕が勉強が楽しく思えた理由は勉強したから
僕と言ったらそれはそれはもう勉強が嫌いで、中学も高校もろくすっぽ勉強せず、大学に行こうという発想にもならなかったので受験勉強というものもしていません。
中学のときに高校受験に向けて少しは勉強しましたが、結局(私生活は真面目だったので)「部活の副部長」「2年に渡っての学級委員」「生徒会役員」「応援団員」などを武器として推薦入学を果たしてしまったので、早々とやめてしまったのでした。
そんな僕がよもや自発的に英語を勉強したり、歴史・地理に興味を持ったり、哲学や思想的な本を読んだりするようになるとは思いもしませんでした。
不思議なものだなーと思います。
つまり、僕は根っからの勉強嫌いではなかった。
知りたくもないことを無理矢理押し付けられるのが嫌だっただけなのであって、学ぶということ自体は嫌いではなかったのです。
そのポテンシャルはもちろん誰にでもあるのでしょう。
ならばそのポテンシャルを最大限まで発揮させるのが教育者の役目なのではないか、などと思います。
それは先生方もそうですが、親にしてもそうです。
僕に学ぶことの大切さをもう少し早くから教えてくれていたならば、もう少し自発的に勉強していたのではないか、と。
まあ今僕が勉強するようになったのは親の影響ではないので、「早くに教えてくれていたならば」とかそういう話でもないんだけれども(もちろん育ててくれたことには多大な感謝をしていますが)。
じゃあどうしてこうなったんだろう?
あんなに勉強が嫌いだったし、本なんて一切読まなかったのに。
考えてみると、矛盾するようですが、勉強したからなのではないか、という風に思います。
というのも、勉強したからこそ勉強の楽しさ・面白さがわかり、より勉強するようになったのだ、と。
これは「卵が先か鶏が先か」という話に似ているかもしれません。
勉強する人は勉強の面白さを知っている。
じゃあ何故知っているかと言ったら、それは勉強しているからです。
じゃあ何故勉強をしたのだろう?
当たり前だけれど、楽器の楽しさだって楽器を弾いてみないことにはわからないでしょう。
楽しそうに楽器を弾いてる人を見て「楽しそうだな」と感じることはあるだろうけれど、実際に弾くことの楽しさは当然ながら弾いてみないことにはわからない。
それと同じように、勉強の面白さも勉強をしないことにはわからない。
多くの人は「いろいろ知ってると世界が違って見えるんだろうな」とか、クイズ番組なんかでいろいろな問題に答えてる人を見て「凄いな」「憧れるな」とか思ったことが一度や二度と言わず、何度もあると思います。
だけれども、実際に学ぶかと言ったらどうやらやっぱり腰が重たい。
少なくとも僕はそうでした。
でもその腰をどうにかこうにかして持ち上げて勉強してみると、なんとも面白い。
世界が違って見える。
わからない事柄が、もやもやっとしていたのがクリアに見えてくる。
もちろんまだまだ学び足りないわけだけれど、だからこそ他のもやもやっとしたところが目立つもので「もっと勉強したいな」と思うようになるのでした。
このことにもっと早くに気付いていたならば、今頃はもっと凄かったはずなのだけれど、残念ながらそうはなっていない。
現状は現状として仕方がないのだから、「今が一番若い」という言葉を胸に頑張っていこうと思います。
おしまい