生きる意味なんてないと思ったからこそ広がった世界

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実は「生きるとはなんぞや」ということを(バカなりに)本気で考えたことがあります。

と言っても誰でも思春期に一度や二度、そうやって人生について考えたことってあるとは思うのだけれど、僕はだいぶ楽観的に生きてきたという自負があるので、よもやそんなようなことを自分が考える日が来るなんて思ってもいませんでした。

 

多分どこかで「考えたら終わりだな」と思っていたのかもしれない。

もし本気で考えたとしてもきっと答えなんて出ないだろうと、どこかで勘付いていたのかもしれない。

 

だけれども、思っちゃった。

考えちゃった。

 

そしたら、やっぱり答えなんてのは見付からなくて、酷く人生なんてのはつまらないように思えました。

楽しいと思えることはちゃんとあるけれど、およそ本気で取り組みたいようなことも見付からず、そんな僕が生きていて何か世界が変わるのかって言ったらきっとそうではない。

 

ああ意味なんてないんだなーと。

 

そしたら、映画を観ることも、音楽を聴くことも、楽器を演奏することも、本を読むことも、勉強することも、働くことも、生きていくことも、全部全部意味がないように思えました。

そうやって何をする気にもならなくなった僕は多分あのとき、鬱の世界に片足を突っ込んでいたと思う。

 

でも、いっそ終わらせようとは思わなかったです。

よし、まだ大丈夫だなと思えました。

 

でも、いっそ終わらせようとは思っていないことを自覚したのも初めてでした。

そんなこと今まで考えたこともなかったから。

 

……………

そんなカスッカスの気力の中、ある日、本屋に行きました。

何かあるんじゃないかという特に当てのない散策でしたが、見て回り、ふと何気なく手に取った本を読んでみると、冒頭

 

「私は2度自殺を考えたことがある」

 

というようなことが書かれていました。

なんだろう、縁のめぐり合わせとでも言えばいいかしら、僕はそのままその本を買うことに決めました。

 

そのとき気付いたのです。

ああついに「自殺」というキーワードが自分事になったんだな、と。

 

多分今までだってそういう問題を取り扱った何かを見てきたと思います。

だけれども、自分にはその発想が一切なかったから、どこか他人事のように思っていたのでした。

他人事だからそこまで深く興味を示さない。

せいぜい「なんでそういう発想になるんだろうな」という外野的思考です。

 

でも突き詰めれば僕だってそういう発想になりかねないことを今は否定できない。

だからもう立派に自分事です。

 

……………

話は少しネガティブだけれど、人の興味・関心というのはそうやって広がっていくのだと思います。

知らないことは知らないんだから、興味も関心もない。

だからそういうものについて触れた本や作品を見聞きしたところで何も響かない。

 

だけれども、知っていること、知っている状態が増えれば増えるほど、また同時に興味・関心も広がっていく。

そうするとどれもこれも自分事のように思えて、どれもこれもが大事なもののように思えてくる。

全部僕の為に用意されたかのようなものであって、なんだ、人生も捨てたもんじゃないなと少し思える。

 

知識の広がりは、世界の広がりだなと思います。

 

かつてとあるアーティストが言いました。

「音楽で世界は変えられない。でも聴いてる人は変えられる。そしたらその人の世界の見方が変わる」

 

世界のあり方は変わらないし、僕が世界をどうこうできるなんてことは確かにない、けれども、生きる世界をどう見るかは僕次第。

つまらなく思えたらつまらない人生だろうし、楽しく思えたらきっと楽しい人生です。

 

そう思って、言い聞かせて、今はわりとのんびり生きています。

 

提灯片手に、手探りに。

 

おしまい