自分なりの「良さ」「正しさ」を持つ意義

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昨日、普段あまり見ないテレビをなんとなく見ていたら、何やらビールの特集?的なことをやっていました。

キリンビールがこの度缶ビールの新商品を開発したから、海外のビール好きに飲ませたらどんな反応をするか、というようなものだったのですが、コクが足りないだとか、甘過ぎるといった反応があるもののおおむね高評価な印象でした。

 

面白いなと思ったのは、ドイツでの反応。

昔ながらのビールが好きな上の世代には「フルーティ過ぎる」「甘過ぎる」といった反応が多い中、若者達は大絶賛。

そんな若者達は上の世代の方々に対してこんな風に言っていました。

 

「あいつら凝り固まってる」

 

言葉は違ったと思いますが、大体そんなようなことを言っていました。

「変化受け入れられない」「新しいものを嫌う」「こだわりが強すぎる」というような、そんなニュアンスが含まれているように僕は感じました。

 

しかしながら、でもそういう感覚も大事だよな、と僕は思いました。

というのも、誰かがこだわらなければなくなってしまう何かってきっとあって、それは失われるべきではないものかもしれない。

もう失われた大切な何かも、誰かがこだわっていれば残っていたかもしれない。

むしろ、そういう気持ちがあるからこそ今日の伝統文化があるのではないか、などと、すっかりおっさん思考になってしまった僕は思うのです。

 

確かに凝り固まるのは恐ろしい。

自分が正しいと思うのだって恐ろしい。

世界は常に変化していて、それをただ悲観的に捉えて昔ながらの物にこだわるのは、どこかのタイミングで置いてけぼりになるかもしれない。

 

でもだからと言って、全部が全部変わってしまったら、伝統的な歴史は何も残らなくなってしまう。

つまるところ、ドイツのビールだって伝統的な良さがなくなってしまうかもしれない(ビールのことはよくわからないけど)。

 

反対に、じゃあなんでも残せばいいってもんでもないから困ったものです。

もうそんな文化はいらないはずなのに、なんだかどこかの誰かが強いこだわりをひけらかすものだから、いつまで経っても消えないしょーもない文化だってあるかもしれない。

 

変化しない良さもあるし、変化する良さもある。

その「良さ」は人それぞれ違うものだろうから、どこまでいっても客観的な「良さ」にはたどり着かないのだろうけれど、少なくとも自分なりの「良さ」を持っていると、様々な場面において選択を誤らないのかもしれません。

仮に自分が選んだ選択が困難なものであったとしても、それは自分なりの「良さ」、言い換えるならば、こうあるべきと考える自分なりの「正しさ」に従ったものであるならば、そこに後悔は生まれないでしょう。

世界はこういう方向に向かっているけれど自分はこうしたい、という気持ちがそこにあるならば。

 

それが、「世界はこういう方向に向かっているけど自分はこうしたい。でもそれを世界が許さないから仕方なく妥協してる」になると、この世界で生きづらくなる一方だと思います。

 

変化の中に自分なりの「良さ」「正しさ」を見出して選択する。

 

もう少し僕達はわがままでもいいのかもしれません。

 

おしまい